「かぞくのくに」という映画を観て、はじめてヤン・ヨンヒという監督の存在を知った。
この映画から受けた衝撃は大きかったが、今回のノンフィクションWを通じて、ヤン・ヨンヒ監督が「かぞくのくに」という映画に込めた、ノンフィクションで描けない現実世界の不条理や、表面化しない家族の感情が織り込まれていることを、改めて説明された気がした。というより、このノンフィクションWを通じて、彼女が伝えたい思いが、輪郭を持ってはっきりしたという方が正しいだろうか。
「かぞくのくに」を作ったことで国際的な問題児になり、自分の家族を有名にすることで家族を守る。
本国への入国を禁じられ、兄たちに会えなくなった彼女の大きな覚悟と、家族を危険な目に遭わせかねないという深い孤独や不安が、この映像からだけでも痛いほどに伝わり、観ている私の心にも突き刺さるものが大きすぎるくらいだった。
しかし、衝撃を受けるだけで終わらないのがノンフィクション。観ている側が、彼女の姿勢をただ「凄い」と思うだけで済ませてはいけないと気持ちが動く。
彼女の置かれている現実は今もおそらく変わらないし、生きている家族もいる。たとえ離れていても、会うことが難しくても、家族の存在は彼女を支える大きな支柱だ。
「何かを恐れることなく、自由に家族揃って当たり前の日常を過ごす」という実にシンプルな願いのために、自らが盾となり「映像」を武器に闘うヤン・ヨンヒという人を、「観る」ことで支えたいと思う。観客という立場は、なかなか作り手に接する機会がない。でも、そんな遠い立場にいても、なにか出来るかもしれないということを考えずにはいられないほど、このドキュメントを観たときに感じた様々な思いが、時間の経った今でも心を掴んで離さない。
北朝鮮という国に対してその閉鎖的な体制から国際的に異端であるという印象があったせいか、私がヤン・ヨンヒ監督の『かぞくのくに』を観て感じたのは彼女が北朝鮮という国の実態を世界に伝える使命感を持っているのではないかということだった。しかしそれは誤りであった。ヤン・ヨンヒ監督にとって北朝鮮は家族の国だ。ノンフィクションWで彼女は北朝鮮に住む家族への想いを話していた。私がイメージしていた政治的な考えを口にすることはなかった。そこには革命家ではなく、映像作家の姿があった。
初期の2本のドキュメンタリーではありのままの家族の姿を撮影していたが、『かぞくのくに』は映画である。撮影にあたり、その違いが彼女の前に立ちふさがった。そんな彼女の苦悩を打開するきっかけとなったのが出演していたヤン・イクチュンの「現実でできないことを映画でぶつければいい」という言葉だった。そうして完成した映画には現実でのみこんでしまった彼女の激しい想いが描かれていた。この経験を経て、なにかがふっきれたように彼女が自由になれたように見えた。生易しい道ではなかったし、涙もあった。優等生から問題児へ。家族と2度と会えなくなる危険を冒してまで映画監督として生きる彼女の姿に胸が揺さぶられた。
ノンフィクションWには派手な脚色や大げさな音楽にごまかされた人生が描かれているのではない。ありのままの人生が、想いが映っている。映る者と観る者はもう一度出会いをやり直すのである。ヤン・ヨンヒ監督に間違った印象をもっていた私はもう一度彼女に「はじめまして」と言いたい。そうすることできちんと彼女の作品と向かい合える気がするのである。
ヤン・ヨンヒ監督の作品は実は未見でした。正直、先入観もあったのです。
ですが、この番組を拝見してNYの恩師のもとで思わず涙を流す監督の姿、映画で国境を越えたいと語る監督の姿にこころを打たれました。世界中にこういった経験を持っている人はいて、それが映画で共有されることもあるのだと。
恵まれた環境にいながら、いつも自分のことばかり…他人のことと言ってしまえばそれまでですが、いまこの瞬間をともに生きている世界中の人たちのことを、直接話すのは無理でも、想像して生きていきたい、そう思いました。
どうもありがとうございました。
政治という組織が国境の壁を作ってしましまっていて、国と国に深い溝をもたらしている。確かに、映画にも、音楽にも、アートにも、どこにも壁はない。そこには何の区別もない。監督の故郷でもある北朝鮮では、政治が絶対で自由に発言することも許されない国。日本に生まれ、私は今まで自分の発言に”国”を意識したことは無かった。しかし、そこで生きている人がいる。生きなければいけない人たちがいる。なんだか、言葉にならない監督は北朝鮮にいる家族を描き、今は入国禁止になっているそうだ。命を賭けて描く、描きたい、描かなければならない。とても気さくで、人間味溢れる監督でしたが、漲るパワーと、真の強さを感じ、感動しました。
監督さんの歩んできた道のりとこれからを上手にまとめた番組だと思いました。
映画の中の監視役を演じたヤン・イクチュンさんの号泣、、、彼にとっても、またうんと身近なコトなんだろうと感じました。
その後の監督さんのトークと混ざってしまいますがとってもおしゃべり好きな監督さんは自然体で謙虚で素敵な方で悲壮感なんて微塵もない明るい女性でした。
在りし日のお父さんは、結婚するんだったら日本とアメリカ以外の人って言ってたけど、3人の息子を人質に取られてるわけだからジレンマなのかなぁ、本心だったんだろうか。。。とそこまであの国に忠誠をたてないと、家族が守れないと思ったのかな。。。と考えてしまいました。
私達はどれだけ自由なんだろう、ありきたりだと思う毎日をもっと大切に生きなくちゃいけないと思いました。
映画「かぞくのくに」に触れたのは、2013年3月15日。オーディトリウム渋谷で開催された、第15回シナリオ作家協会「菊島隆三賞」授賞式にて記念上映があった日だ。ヤン・ヨンヒ監督に非常に感心を持った。ざっくばらんとした姉御肌。気さくで気ままな語り口調。(そしてとてもお酒が好きそうだ)
すぐさま「兄 かぞくのくに」を拝読。アボジとオモニ、そして三人の兄の愛に包まれている。ということ。やりたいこと。やらなくてはいけないこと。
「ノンフィクションW 映画で国境を越える日 ~映像作家・ヤン ヨンヒという生き方~」は、映画「かぞくのくに」と著書「兄 かぞくのくに」をより知るための補完的作品だ。
元々ノンフィクション作家だった監督が、フィクションに挑戦する工程。誕生から現在までの行程。触れ合った人々たち。
実際のモデルと創造の融合。何故あの強さが生まれるのか。その裏側には何があったのか。先日行われた同タイトル試写後のトークショーは、短いながらも大変有意義な空間であった。
・どういう映画を作りたいか、作りたくないか。
・こうしてほしい、やってみたいは全部やる。
・化粧も、演じることの一部。
・監督業とは、やりたい事を人に託すこと。
・失敗は怖くない。恥をかくことに抵抗がない。
・恥ずかしいけどやりたい。カッコ悪いけどやりたい。
・励ましてくれる人の意見だけ聞く。
そして最後に「云いたいことは、その時に云う」
また、「好きなお酒は?」という質疑応答で「泡盛以外(笑)」とお応えしていたが、強く水割りをオススメしたい。ウチナーンチュはあまりストレートで呑まない、と聞いたことがある。いつか監督と呑み屋かなんかで偶然お会いして、一杯呑み交わしたいものだ。
「主人公」ヤン氏をして違和感を一秒たりとも感じなかったと言わせたドキュメンタリー。いや、なるほど実際のヤンさんのトークで聞いた内容と番組で観た内容とがごっちゃになって今となっては区別がつかない。
まぁそんな私の記憶力のなさはともかくとして、番組もヤンさんの映画同様、ともすれば悲壮感漂うテーマを扱うのに不必要に重苦しくはならない。「自分が有名になる事が家族を守ること」という矛盾、映画をやめろとは言わない平壌の家族の「無言の応援」…その重さは観終わってからジワジワと効いてくる。
ドキュメンタリー、ことに製作時間等の制約のあるTV番組で、その対象者から「違和感を感じない」と言われるほどに同化するというのは奇跡に近いことではないか。いや、無論本来客観的であるべきドキュメンタリー、あるいは製作者がそこまで同化してしまうのは問題なのかもしれない。対象者が自覚しない何かを抽出しそびれているのかもしれない。
それでもたまには良いではないか。そんな奇跡を体験する機会など滅多にないのだから。
自分のルーツとか環境とかに関係なく、ぶれない意志を持っていれば成し遂げられるということを、ドキュメンタリーから突き付けられた思いでした。私事ですが来年から社会人で、将来に向かって迷走しているモラトリアム学生として、響くところが大きかったです。またヤンヨンヒ監督は強い女性というよりも兄たちが謳歌できなかった「自由」を精いっぱい利用しなくてはならない、という使命感に突き動かされていたように感じました。トークショーも含めとても魅力的な女性で、同性として憧れました。