終戦近い神戸は連日、B29の空襲に見舞われていた。幼い兄妹・清太と節子は混乱のさなか、母と別れ別れになった。清太が非常時の集合場所である国民学校へ駆けつけると、母はすでに危篤状態で間もなく息絶えてしまった。家を焼け出された兄妹は遠縁に当たる未亡人宅に身を寄せた。しかし、うまくいっていた共同生活も、生活が苦しくなるとしこりが出てきた。未亡人は学校へ行かず、防火訓練にも参加しないでぶらぶら遊んでいる二人に対して不満をぶつけるようになった。清太は息苦しい毎日の生活が嫌になり、ある日節子を連れて未亡人の家を出た。そして、二人はわずかの家財道具をリヤカーに積み、川辺の横穴豪へ住みついた。兄妹は水入らずで、貧しくとも楽しい生活を送ることになった。食糧は川で取れるタニシやフナ。電気もないので明りには、蛍を集めて瓶に入れていた。節子は幼心に母の死を知っており、蛍の墓を見ながら偲ぶのだった。しかし、楽しい生活も束の間、やがて食糧も尽き、清太は畑泥棒までやるようになった。ある晩、清太は畑に忍び込んだところを見つかり、農夫にさんざん殴られたあげく、警察につき出されてしまった。すぐに釈放されたものの、幼い節子の体は栄養失調のため日に日に弱っていった。清太は空襲に紛れて盗んだ野菜でスープを作り、節子に飲ませたが、あまり効果はなかった。ある日、川辺でぐったりしていた節子を清太は医者に診せたが、「薬では治らない。滋養をつけなさい」と言われただけだった。昭和20年の夏、日本はようやく終戦を迎えた。清太らの父は海軍にいたが、生還する望みは薄かった。清太は銀行からおろした金で食糧を買い、節子におかゆとスイカを食べさせるが、もはや口にする力も失くしていた。節子は静かに息をひき取り、清太は一人になったが、彼もまた駅で浮浪者とともにやがてくる死を待つだけだった。