文久三年一月。武州多摩で然理心流の試衛館道場を開く近藤勇は、相談相手の土方歳三や、門弟沖田総司らと浪士隊に応募し、京に向った。隊には水戸浪士芹沢鴨らも参加していた。江戸逆戻りの命に背いた近藤らと芹沢ら十三名は、松平肥後守御預けになり、同年三月、新選組が誕生した。島原の大夫・お雪とその妹お孝が近藤に心を寄せた。近藤と共に実権を持つ芹沢の乱暴狼籍は、目に余り、遂に近藤は、土方、沖田らと、芹沢を暗殺した。新見錦ら芹沢派も、次々と斬られ、新選組の実権は完全に近藤が握った。新選組の名は洛中に鳴り響いた。元治元年六月五日、政変で失墜した長州派の志士たちは池田屋に集っていた。これを探知した近藤らは、僅か五名で、突入した。乱闘二時間余り、凄絶な斬り合いの末、志士の即死七名、生補りなど二十余名を数えた。新選組の圧倒的勝利だった。以来、新選組は、幕臣の信頼を集め、羽振りもよくなった。しかし幕府は衰亡の一途を辿っていた。近藤は、幕府の危機を悟ったが、節を曲げず、最後まで幕府のために働く初心を変えなかった。近藤とはそういう男だった。鳥羽・伏見の戦いに敗れた近藤らは、江戸へ帰った。そして、甲陽鎮撫隊を率いた近藤は、戦い利あらず、下総流山で官軍にくだった。慶応四年四月二十五日、板橋の刑場で、近藤勇の首は胴を離れた。