初夏のある日、北穂高滝谷の、第一尾根岩壁にしがみついていた、三人のパーティの一人が足を滑らせて転落、ザイルで結ばれていた真中の女も、引きずられて宙吊になった。最後部の男によって辛うじて支えられたが、宙吊の男が、近くの岩に飛びつこうと体を揺らせ始めたので、重みに耐えかねた男は絶叫し、その手から血がふき出していた。その時女はナイフで自分の下のザイルを切った。男は落下し、女は引き上げられた。死んだのは女の夫で大学の薬学の助教授滝川、もう一人は、愛人の幸田だった。妻滝川彩子は告発されて法廷に立った。彩子が幸田と情を通じていた事、夫に五百万円の生命保険がかかっていることをもとに、検事は有罪を主張し、弁護士は殺意を持っていなかった点、自分の生命を守るためのやむを得ぬ行為という点から、無罪を主張した。夫の死体を引きとる時にも涙一つ見せない彩子は、性格のきつい女だった。幸田を愛していた婚約者理恵は、この事件で幸田の愛情を疑い始め、裁判中というのに秘かに二人が逢っているのを見て絶望的になった。戦災孤児で親戚にひきとられていた彩子は、薬剤師を目ざして勉学する傍ら、滝川の雑用をしていたが、過労と栄養失調で自殺も考えたほどだ。そんな彩子を滝川が拾うように結婚した。子供が出来ても生ませない、便利で安上りの家政婦のような生活に、離婚を迫った時もあったが、彼は逆に一生飼殺しにして自由を奪ってやる、と広言したのだ。そんな時滝川に連絡に来ていた製薬会社社員幸田と知り合った。幸田が滝川に保険を勧めた時、二人の関係に気づいていて自分の収入の半分もの金を掛けたのは、生活費を減らして彩子を苦しめるという、彼らしいやり方だったのだ。判決は無罪だった。杉山弁護士の奔走によって二人の間柄はこくめいになっていった。二人は互に愛情を持っていったが、体の関係は持っていなかった。彩子の方が、幸田に積極的だったのだ。ザイルを切り離したのは、殺意ではなく幸田を救おうとしたためというのだ。幸田は彩子との結婚を心にきめたが、噂を嫌った彩子はアパートに越した。幸田は汚なくても自分の所に住もうと口論した。「あの時本当に分ったわ、私が愛していたのはあなたなのよ」この言葉に驚いた幸田は大阪への転勤を申し出、受理された。幸田は彩子との結婚に危惧を抱いたのだ。出発の日、やせ細った彩子が幸田を社へ訪れた。結婚を哀願しても冷くされ、彼女は玄関先で毒をのんで倒れた。遺留品の中に幸田が受取人の五百万円の小切手があった。医務室の外にいた理恵は吐き出すように幸田に言った。「奥さんを殺したのはあなたよ、奥さんが人殺しならあなたも人殺しよ」。