昭和十九年六月、無敵を誇った零式艦上戦闘機も敵新鋭機の前に衰えをみせ、制空権を失った日本海軍の前途は暗澹たるものがあった。大本営では特攻攻撃以外にすべはないという意見が圧倒的だったが、一人千田航空参謀は新鋭機“紫電改”の完成とともに精鋭をすぐって制空権を奪い返し、それを突破口として戦局を打開すべきであると主張した。意見は容れられ優秀な三人の搭乗員、安宅大尉矢野大尉、滝大尉を四国松山基地へ集結させるよう太平洋各地へ打電された。すでに敵の艦隊に取り巻かれてぃる硫黄島から、安宅は魚雷艇の追跡をかわしながら命からがら味方の潜水艦に救助された。続いてラバウルにある矢野は、もって生れた機智と度胸で米軍の魚雷艇をぶんどって。比島の滝は燃料も少ない丸腰の輸送機を駆って帰遷した。はためく幟に大書した第三四三航空隊。紫電改七二機を背に三飛行隊各二四名が勢揃いした。司令千田は、最後まで生き抜いて戦うこそ戦闘であると特攻を許さなかった。昭和二十年三月十八日、敵は四国九州地区へ向け艦載機の大群を放った。七二機の一斉離陸。紫電改は雲間をついて一挙に狼狽する敵機に襲いかかった。落下炎上する敵機の数は紫電改の数倍に及び、三四三航空隊の勇名はとどろいた。軍令部は直に受持区域の拡大を強制してきた。可動機数が減少している今、それは無謀だった。三本の矢も一本になったら--。豪放に出発していった矢野は劣勢をかって遂に散った。時を同じくして、片道燃料だけで戦艦大和出撃の報が伝わった。大和に限りない愛着をもつ安宅らは千田の命令をも無視して、大和護衛のため沖縄へと向った。そして大和と共に永久に姿を消した。唯一人生き残った滝は、何かに憑かれたかのようにB29二百機の編隊めがけてまっしぐらに突き進んでいた。その頃、基地では、千田司令が滝に帰還命令をだしていた。そして、美也子も彼の生還を祈っていた。だが、滝は無線電話を引きちぎり、B29へ体当り攻撃をかけていった。