明治二十五年五月、北里柴三郎は七年の欧州留学を終えて帰朝した。彼はその間、ドクトル・ローベルト・コッホの細菌学研究室で学んだ。彼の輝ける業績と学勲を讃える国民の狂熱的歓呼はどっと上がったが、しかし悲しい事にはこれは瞬時の昂奮でしかなかった。帰朝三ヶ月間、彼の口癖のようにして要望した伝染病研究所はおろか、安心して顕微鏡を覗いていられる研究室さえ与えられなかった。彼は納屋を改造して研究室とし対照動物の山羊達と生活を共にした。彼の研究は既に破傷風菌の純粋培養に成功していた。そしてこの毒素を用いてジフテリアの免疫血清を作る事に彼は専念した。その頃、助手の梅本を頼って父の死後上京して来た許婚の貞子が長谷病院に入院した。貞子の病篤しと見た梅本は研究室より北里がドイツから持ち帰ったツベルクリンを盗みとり貞子に打った。その結果は彼の浅墓な判断からとはいえ貞子を死に陥れてしまった。長谷はツベルクリン事件の昂奮抑えがたく北里との交友を断った。大学派は北里の長谷病院長無視の独断を論難した。北里は長谷に詫び梅本の責任を一身に受けて世間の指弾を受けるのである。梅本は北里の温情に感涙し、研究に専念し、ともすれば悄然たる北里を励ました。ある日、人知れず悶々の日を送っている北里の家に福沢諭吉が訪れた。うかぬ彼は次第に福沢の熱意と良識に引きづられ、忌憚なく所心を述べ、福沢は苦境に立つ彼を救った。福沢の推輓は芝公園内の研究所設立という形で現れ、彼はそこで鋭意研究を再会した。数ヶ月後、突然ジフテリアが発生し、その罹病者死亡者数はおびただしい数に上がり、長谷病院には日増しにジフテリアで死んでゆく幼児が続出していった。北里の研究はようやく軌道に乗り、遂にジフテリア血清の採取に成功し直ちに長谷病院を訪れた。しかし一刻を争う病人を前にして長谷は採取したばかりの北里の血清を責任ある患者に使えるかと頭から応じなかった。北里は彼のジフテリア療法の非と危険を指摘し血清注射使用を自信をもって説いた。しかし長谷は肯んぜず、ジフテリアが猖獗した事をもって彼の責任なりとして非難し、恐怖の極にある市民の与論にそれを訴えようとさえ敢てした。そして芝区民伝染病研究所立退運動を口火として、この反対運動は各所に飛火して行った。これに同意する者、反対を唱える者、喧々たる中に幸か不幸か、北里の愛児善子がジフテリアに罹病し、ここに彼は梅本や富子の反対を押し切って愛児に決然彼の血清注射の使用を決意し、遂に彼は実証をもって、この与論に、解決を与えんとして、見事に成功を収めた。そして、幾多の尊い生命を病魔の不幸より救う偉大なる業績を樹立した。