1895年、アゼルバイジャンの油田地帯の町・バクーで、ドイツ人の父とロシア人の母の間に生まれたリヒャルト・ゾルゲは、昭和16年秋、尾崎秀實と共に国防保安法及び治安維持法違反の容疑で検挙され、特高警察の厳しい追及に遂に共産主義のスパイであることを認めた。米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと尾崎が出会ったのは、昭和6年の上海。当時、朝日新聞社上海通信局に赴任していた尾崎は、「列強からアジアを救いたい」と言う信念から日本上層部の情報をゾルゲに伝え、ゾルゲはそれをモスクワの赤軍第四本部へ送った。その後、ドイツ新聞記者を装い東京のドイツ大使館に出入りするようになったゾルゲ。オット大佐の力添えでヒットラー率いるナチスに入党した彼は、それからも、近衛内閣嘱託、更に南満州鉄道嘱託となった尾崎や大使館から入手した国家機密を無線でモスクワの赤軍第四本部へ送り続けたが、スターリンの粛正が激しさを増すと、二重スパイではないかと疑われ、宣戦布告無しのドイツ軍ソ連侵攻の情報は無視されてしまう。やがて、時代は目まぐるしく変化し、第二次世界大戦直前。母国での信頼を回復していたゾルゲは、尾崎からもたらされた御前会議で決定した日本軍の南進策をモスクワへ打電する。報せを受けたソ連は、兵力をドイツ軍に集中させスターリングラードの戦いで圧勝。しかし、これを最後に任を解かれる筈だったゾルゲは、尾崎と共に逮捕され、3年間の獄中生活の後、1944年11月7日、「国際共産主義万歳」と言う最後の言葉を残し処刑されたのであった。