日本統治時代の台湾。1929年に誕生した日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民による嘉義農林野球部は、新任監督の近藤兵太郎(永瀬正敏)を迎え、彼の出身高である松山商直伝のスパルタ式訓練で甲子園進出を目指すことになった。のんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤の鬼のような特訓を1年間続ける中、連敗続きの野球部員も次第に勝利への強い意志が沸き出し、甲子園出場の夢を抱くようになっていく。そしてついに1931年、台湾予選大会で連勝、日本人のみの常勝チームであった台北商業を打ち負かし、嘉義農林は南部の学校で初めて台湾代表大会で優勝する。台湾代表チームとして日本へ遠征、夏の甲子園大会に出場した嘉義農林は勝ち進み、決勝へと進出するが惜しくも敗退。だが観客席からは「戦場の英雄、天下の嘉農」と熱い声援が送られた。嘉義農林の、1球たりとも諦めないそのプレイは5万5千人の大観衆の心を掴み、嘉農躍進の話題は日本中に広まっていくのだった……。