「荒野の七人」「大脱走」「華麗なる賭け」と立て続けにヒットを飛ばし、「ブリット」ではカーチェイスを発明、ハリウッドの頂点に立った大スター、スティーヴ・マックィーン。レース・ドライバーとしても地位を確立した彼が実現させようと心血を注いだ悲願のプロジェクトが、「栄光のル・マン」だった。1962年、マックィーンはモータースポーツの映画企画を発案。ワーナーブラザースの資本のもとF1を題材にした「Day Of The Champion」の企画を進めるが、1966年にMGMによる「グラン・プリ」が先行し、ワーナーは企画を中止させた。しかも「グラン・プリ」はレースではなくメロドラマに主軸が置かれており、マックィーンは究極のレース映画を作るという思いを強めていった。マックィーンにとってレースは一種のアートであり、レースやそれにまつわる人間の思いを撮りたいと願っていた。押しも押されぬスターとなったマックィーンは、世界最高峰のレースであるル・マン24時間レースを題材に、悲願のプロジェクト「栄光のル・マン」を立ち上げる。彼はこのプロジェクトの全権を掌握しようとした。マックィーンの制作プロダクション、ソーラー・プロと契約を結んでいるシネマ・センター・フィルムズ社は、それまでのマックィーン作品の最高額600万ドルを出資。監督に「荒野の七人」や「大脱走」で組んだジョン・スタージェスを迎え、制作現場の指揮をマックィーンのビジネス・パートナーであり親友のロバート・E・レリアが執ることに。そして、多国籍の技術者やメカニック、45人もの世界最高のレースドライバーたちが集められた。マックィーンは徹底的にリアリティを追求、レースの本当のエッセンス、本当の危険さを撮ろうとし、視覚効果や物語上のロマンティックな要素は一切求めていなかった。ハリウッド最大のスター、最高の監督、最強の技術チームが集結しながら、1970年6月の段階で台本は無かった。次第にプレッシャーから偏執的になっていくマックィーン。やがて、あからさまな不貞行為に絶望した妻のニール・アダムスと決裂。ハリウッド的な物語を拒否し続けたため、ジョン・スタージェス監督が降板。予算とスケジュールは超過し、シネマ・センター・フィルムズはマックィーンのプロデュース権を剥奪。マックィーンはこれらの責任をロバート・E・レリアに押しつけた。ハリウッドきっての大スターが人生を賭け夢を追い、キャリアのすべてを失いかけた「栄光のル・マン」の裏側を振り返る。