太平洋戦争中の1944年8月5日、オーストラリア東部の田舎町カウラに設立された第十二捕虜収容所から1104人に及ぶ捕虜が集団脱走した。日本人捕虜234人、オーストラリア人の監視兵ら4人が命を落とした“カウラ事件”。だが、正確に言えばそれは“脱走”ではなく、日本人捕虜の目的は“死に行く”ことだった……。オーストラリア側の捕虜の待遇は、日本軍とは違い申し分なかった。食事はあり余るほどで、捕虜たちは麻雀や花札、演劇など様々な娯楽を楽しんでおり、中でも大きな楽しみの一つが野球だった。手製のバットやグローブを器用に作り、班対抗の試合なども行われていた。捕虜の間に階級の序列はなく、重要事項は全員の投票を経て42の班の代表からなる班長会議に諮られ、決定した。形式的には民主的な秩序が成立していたのだ。収容所で手厚い保護を受けた生活を送るうち、捕虜たちの間には生への執着が確実に芽生えていた。しかし、そんな安穏な日々の中でも捕虜たちの頭を絶えず離れないことがあった。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」彼らを絶望的な集団脱走へと向わせたのは、捕虜になることを恥とした東條英機陸相による「戦陣訓」に象徴される旧日本軍の方針だった。決起への是非を問う投票で、生への希望に抗いながら、実に8割がトイレットペーパーの投票用紙に「○」(脱走に賛成)と書いた。そして、8月5日の深夜、静寂を破るかのように突撃ラッパが収容所に響き渡る……。