東京市深川区(現・東京都江東区)の生まれ。本名・奥村利夫。父は杵屋勝東冶を名乗る長唄の師匠で、2歳上の兄・勝は俳優の若山富三郎。1938年、6歳の6月6日に縁起をかついで杵屋勝貴賀に弟子入りし、長唄と三味線を習い始める。44年、法政大学付属中学に入るが、9月に兄とふたりで栃木県の日光へ疎開。疎開っ子の悲哀から学校が嫌になり、中退となる。戦後の47年に帰京、本格的に長唄を修行し、48年に17歳で二世杵屋勝丸を襲名。父の代稽古をつとめたり歌舞伎座に出たりするとともに、ジャズの技法を長唄に取り入れた新曲『たけくらべ』を発表して話題となる。53年7月、花柳小菊(田中春男との説もある)の勧めで、大映京都撮影所のカメラテストを受ける。翌54年6月に大映からの誘いがあり、ただちに入社。芸名を“勝新太郎”とする。命名者は父の長唄の弟子で警視総監の田中栄一。父の師匠・杵屋勝太郎にちなんだ。第1回出演作は8月封切の田坂勝彦監督「花の白虎隊」。この作品は、勝より少し前に入社した関西歌舞伎の市川雷蔵、新派の花柳武始、それに勝などの新入社員組を同時に売り出すために企画された、いわばお披露目映画だった。3人ともスター候補生として入社したのだが、主役は雷蔵、準主役は花柳、勝は白虎隊士のひとりとして脇役にとどまった。勝と雷蔵は年齢も同じ、入社も同時期、ともに時代劇の大映京都所属とあって、以後、宿命のライバルとして、ことごとく比較されるのだが、実はスタートから大きな差が付いていて、ギャラも待遇も何から何まで雷蔵が上だった。もちろん、勝もスター候補生として入社しただけあって、次の「お富さん」54からは主役をつとめる。しかし、当時の時代劇は長谷川一夫がまだまだトップスターとして君臨していたように、白塗り二枚目の美男型スター全盛の時代だった。水もしたたる美青年の雷蔵はまさにそうしたタイプにぴったりだったが、太い眉でいかつい顔の勝に白塗りの若侍は似合うはずがない。しかし、勝の白塗り二枚目時代はまだ続く。翌55年、雷蔵は溝口健二監督「新・平家物語」に主役の平清盛で起用され、一躍、名実ともにスターの座につく。勝との差は開く一方で、会社が勝の個性を活かしきれずにいるうちに、ついには長谷川一夫のイミテーションとまで揶揄されるようになる。主役は主役でも“化け猫”映画やチンピラやくざものなどのプログラムピクチュアに廻され、長谷川一夫作品はともかく、「大阪物語」57、「弁天小僧」58、「薄桜記」59などの雷蔵作品の脇役をつとめるという影の薄い存在となる。それでもユーモラスな三枚目的要素と豪快奔放な個性に注目した会社側は、オールスター映画の「次郎長富士」59・60に森の石松役で起用、成功を収める。そんなところで出現したのが、森一生監督「不知火検校」60の企画である。江戸爛熟期を舞台に悪運非道の限りを尽くして出世していく一介の鍼医者の物語。白塗りをやめて汚れ役をという会社の申し出に、勝は冒険を感じながらも乗ったのである。これが中途半端な二枚目・勝新太郎の突破口となる。勝は、悪にも強いがそれでいて憎みきれない座頭を、人間臭を発散させながら生き生きと演じ、入社7年目で初めて強い印象を残した。そして次の企画は、田中徳三監督「悪名」61。原作は今東光の人気小説で、時代劇俳優の勝には冒険的といわれる現代劇ではあったが、任俠精神に生き抜く一匹狼のやくざの親分・朝吉は、これまたはまり役で、八方破れの古風な朝吉に対して、子分役の田宮二郎が演じるモダンなモートルの貞とのコンビの対照も良く、作品も勝の最初のヒット作となった。「悪名」のクランクイン前に、関西歌舞伎の大御所・中村鴈治郎の長女で同じく大映京都の女優・中村玉緒と婚約。ふたりの本格的な共演は「不知火検校」からだったが、彼女にぞっこんになった勝の熱意が通じ、婚約発表にこぎつけたのである。そして「悪名」のヒットが祝砲となった。続く日本初の70ミリ映画「釈迦」の悪役・ダイバダッタでも本領を発揮。「悪名」の続編も作られ、この61年は、勝にとって大きな転換期になった。翌62年3月5日、勝と玉緒の結婚式が挙げられる。そして、この時すでに勝をトップスターにのし上げることになる「座頭市物語」が企画されていた。「座頭市物語」は「不知火検校」を引き継いだかたちの企画で、主人公は子母沢寛の歴史随筆集『ふところ手帖』に、文庫本でわずか10数ページの掌編に登場する按摩の座頭・市。これを「不知火検校」の脚色者・犬塚稔が、盲目でやくざ、居合抜きの名人で、博打も好きなら女も好きという型破りのヒーローに仕立て上げた。もともと勝のキャラクターに合わせて作られた脚本で、時代もこうしたアウトローを待望していた。62年に公開された三隅研次監督「座頭市物語」は配収5,000万円とヒットこそならなかったが、その面白さが評判を集め、同年の「続・座頭市物語」、翌63年の「新・座頭市物語」とジリジリと数字を上げていき、4作目の「座頭市兇状旅」63では前作の倍となる配収1億5,000万円の爆発的ヒットとなった。盲目というハンディをもったアウトローが目明きの悪をなで斬りにする爽快さ、時に笑いを誘う勝の水を得た魚のような絶妙の演技。勝の人気は急上昇し、63年には「座頭市」「悪名」でキネマ旬報賞男優賞を受賞する。次いで65年、増村保造が監督した「兵隊やくざ」が、新しいシリーズに加わる。頭が弱いが正義感の強い八方破れの無頼の兵隊・大宮貴三郎がその役で、彼とは対照的なインテリ兵隊・田村高廣とコンビを組み、軍隊の非人間的機構の中で、やくざの論理をもって自由奔放に生き抜いていく。これまた勝にピタリの役どころで、斜陽の速度を速める日本映画界の中にあって、大映の屋台骨を、雷蔵とともに獅子奮迅の活躍で支えた。「悪名」は74年までに15本、「兵隊やくざ」は72年までに9本、「座頭市」は73年までに25本製作され、以後は74年からテレビに引き継がれていく。この間の71年12月に大映は倒産。勝はその4年前の67年11月に“勝プロダクション”を創立している。経営悪化した大映が勝を拘束できなくなったこと、三船敏郎、石原裕次郎ら大スターが前後してスター・プロを設立したのと歩調を合わせて、アイディアマンとしての意欲をそこに注ぎたかったからだ。同じ67年、山本薩夫監督「座頭市牢破り」を製作して大映に提供したのに続いて、68年には勅使河原宏と阿部公房の監督・脚本コンビで「燃えつきた地図」を製作・主演。成功作とは言えなかったが大きな話題となる。71年には念願だった監督業に進出し、「顔役」を発表。意欲的な映像表現で驚かせる。その後も、勝プロの社長として活発な製作活動を続け、大映倒産後は東宝と提携して、「座頭市」「兵隊やくざ」「悪名」の3シリーズを継続。自ら主演の「御用牙」、兄の若山富三郎主演の「子連れ狼」の両シリーズを開発する。74年には高倉健を共演者に斎藤耕一監督「無宿(やどなし)」を製作。以降はテレビ映画が中心となり、日本テレビ『唖侍・鬼一法眼』73~74、フジテレビ『座頭市物語』74~75、『痛快!河内山宗俊』75~76、『新・座頭市』76~78、製作のみに『さらば浪人』75などがある。またトラブルも多く、78年5月にアヘンを所持して書類送検。79年には黒澤明監督の「影武者」に主演が決まったが、リハーサル中に黒澤と衝突して降板する。81年9月、勝プロは倒産するが、玉緒を社長に“勝プロモーション”として再出発する。映画は83年、野村芳太郎監督「迷走地図」でカムバック。次いで実相寺昭雄監督「帝都物語」88で余裕の助演を見せ、その間の87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に秀吉役で出演し、お茶の間に強烈な印象を残した。そして89年、26本目の「座頭市」に挑む。製作・監督・脚本・主演のひとり四役を担当。しかし撮影中に、出演していた勝の息子・奥村雄大(現・鴈龍太郎)が誤って使用した真剣により、撮影現場で死亡事故が起きるという不運なアクシデントに見舞われた。その事故のショックから立ち直りかけた90年1月、今度はハワイの税関で麻薬密輸入の疑いにより逮捕。「知らぬ間にパンツに入っていた」と主張し、連日マスコミをにぎわせることになる。このあおりで、すでに撮影を終えていた黒木和雄監督「浪人街」90は、6カ月の公開延期となった。92年、懲役2年6カ月、執行猶予4年の判決が下る。同年4月2日、兄・若山富三郎が死去、勝が最後を看取った。95年5月には、銀座セブン劇場『不知火検校』で10年ぶりの舞台に立ち、翌96年5月の大阪・新歌舞伎座『新夫婦善哉・東男京女』で、玉緒と舞台では夫婦初共演を果たした。この芝居を6月末まで九州から東北へ全国公演後、8月5日、千葉県柏市の国立がんセンター東病院に入院。11月に退院して記者会見を開き、咽頭癌であることを明らかにする。「ビールがうまい。オレンジジュースの味がする」と記者たちを驚かした。同年11月25日、国立劇場小劇場「杵屋勝雄の会」で三味線を弾いたのが最後の舞台となる。翌97年6月20日、下咽頭癌により死去。享年65歳。映画黄金期にデビューし、映画が斜陽となっても見事な実績を残した一方で、さまざまなトラブルを起こしながらも大衆から愛された“最後の映画スター”の最期だった。