【サスペンス映画の巨匠】イギリス、ロンドンのレイトンストーン生まれ。本名はAlfred Joseph Hitchcock。幼いころに、八百屋を営んでいた父に「悪いことをするとこうなる」と言われて警察の留置所に入れられたことがあり、それ以来警察嫌いになったと本人は語っている。1908~13年、セント・イグナチウス学校に学び、17年にロンドン大学で絵画とデザインの講座を受講した。14~19年、W・T・ヘンリー電信会社で製図を描き、広告を手がけた。19年、米フェーマス・プレイヤーズ社がイズリントンに設立した撮影所に字幕カード・デザイナーとして入社。22年、脚本家、助監督に転向し、25年にマイケル・バルコンの製作で映画を初監督。3作目の「下宿人」(26)の主人公は連続殺人鬼に間違えられて群衆に追われるという設定で、以後、このパターンのスリラーを数多く撮ることになる。26年12月に結婚したアルマ・レヴィルは以後、脚本執筆で夫を支えた。29年にはイギリス初のトーキー映画「恐喝(ゆすり)」(日本ではビデオ、DVD公開)を手がけた。33年、ゴーモン・ブリティッシュと契約して「暗殺者の家」(34)、「三十九夜」(35)、「間諜最後の日」(36)等を監督。39年、デイヴィッド・O・セルズニックに招かれて渡米し、セルズニック・ピクチャーズでの第一回作品としてダフネ・デュモーリア原作の「レベッカ」(40)を監督。以降、アメリカにとどまり、55年にアメリカの市民権を取得。「疑惑の影」(43)、「汚名」(46)を監督し、スリラーの第一人者とみなされるようになる。もともとアメリカではスリラーは低く見られていたが、ヒッチコックの卓抜したサスペンス手法が認められて、スリラーも高く評価されるようになり、彼自身の地位も高くなっていった。【実験精神が旺盛】最初のカラー作品「ロープ」(48) では一巻一ショット撮影、「ダイヤルMを廻せ!」(54)では立体映画に挑戦(完成したときには立体映画ブームは去っていたので通常版で公開された) と、実験的なテクニックにも果敢に挑戦。他の映画人が軽視していたテレビにも55年から積極的にかかわり、『ヒッチコック劇場』のホストと製作にあたる(時には演出も)。「サイコ」(60) はテレビ製作の手法を使って短時間に少ない人数で手がけた。以後も「マーニー」(64)、「引き裂かれたカーテン」(66)、故国イギリスに戻って「フレンジー」(72)を撮り、76年に最終作「ファミリー・プロット」を発表。68年にアカデミー賞アーヴィング・タルバーグ賞を受賞。80年、英政府よりナイト爵を授与される。「たかが映画じゃないか」「私は俳優を家畜だと言った覚えはない。家畜のように扱うべきだと言ったのだ」など数々の警句を残し、自作の映画に自身がちらりと姿を見せることでも知られている。