【女形出身で、長谷川一夫との名コンビで知られる名匠】三重県亀山市の裕福な商家に生まれた。少年時代から芝居に魅せられ、家出して、新派の一座を転々とし、女形のスターとなる。1917年日活向島撮影所にスカウトされ、翌年「七色指環」でデビューし、5年間で約130本の映画に女形として出演した。20年「妹の死」ではシナリオを書きながらヒロインの妹を演じ、演出にも加わった。折りしも日本の映画界は女形から女優へと移行しつつあり、23年、「妹の死」の再映画化である「二羽の小鳥」から監督専門となる。25年、「日輪」(検閲により「女性の輝き」と改題)を撮ったのが縁で、原作者の横光利一と知り合い、同じ新感覚派の作家・川端康成の原作・脚本で「狂った一頁」を監督する。28年には大胆にデフォルメされ、抽象化されたセットによる時代劇「十字路」を撮り、海外にも紹介された。その果敢な実験精神は、日本映画の最初のトーキー大作「忠臣蔵」前後篇(32)におけるソビエト映画流のモンタージュにも反映されている。【〈泉鏡花もの〉で山本富士子を女優開眼させる】27年、衣笠らが作った独立プロ・衣笠映画連盟は、松竹から請負い、歌舞伎の女形出身・林長二郎の主演時代劇「お嬢吉三」を監督する。以後「弁天小僧」(28)、「鯉名の銀平」(33)、「沓掛時次郎」(34)とヒット作が続き、中でも「雪之丞変化」(35)は、劇中劇の女形を含めた三役を長二郎がこなし、女性ファンを熱狂させた。39年には松竹を辞して東宝へ入社、その第一作「蛇姫様」前後篇は林長二郎改め長谷川一夫とのコンビ復活と喧伝された。この衣笠、長谷川の名コンビによる作品は、戦後の「源氏物語・浮舟」「鳴門秘帖」(ともに57年)まで35本にも及んでいる。戦後は、荒廃した世相を諷刺した喜劇「或る夜の殿様」(46)がキネ旬ベスト・テン第3位にも選ばれ、民主主義啓蒙映画の一環として作られた、松井須磨子と島村抱月の恋物語を描く「女優」(47)では山田五十鈴の魅力を引き出す。山本富士子を主演とする〈泉鏡花もの〉、「婦系図・湯島の白梅」(55)、「白鷺」(58)、「歌行燈」(60)などでは、元女形ならではの、日本画から抜け出たような最も美しく見えるポーズを自ら演じて見せて伝授し、女優開眼させた。長谷川、山田五十鈴出演の「小判鮫」前後篇(48、49)の後、東宝から大映に移る。日本映画初のイーストマン・カラーによる大作「地獄門」(53)は、カンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞の名誉賞・衣裳デザイン賞などを受賞し、世界的な評価を得た。以後、大映では重役として厚遇され、ソビエトとの合作「小さい逃亡者」(66)を最後に第一線を退いた。片岡千恵蔵主演「初祝鼠小僧」(35)でデビューした監督・衣笠十四三は弟である。