【時代劇の世界に若々しい風を起こした才人】滋賀県愛知郡生まれ。本名の“忠”の名で長く監督業を務め、78年に、監督としての名前を“正継”と改名した。同志社外事専門学校を卒業後、京都で野淵昶が主宰していた劇団の演出助手を経て、1950年、月形龍之介の紹介で東映の前身・東横映画撮影所に入社。マキノ雅弘、渡辺邦男、萩原遼らの助監督を務める。「紅孔雀」のチーフ担当時に中村錦之助と出会い、すぐ意気投合。錦之助が大石内蔵助の討ち入り時と同じ45歳になったら一緒に忠臣蔵をやろうと約束しあう。当時の東映京都には監督昇進を短篇でテストする決まりがあり、57年、小品「忍術御前試合」を10日間で撮り上げて合格。正規の監督となった58年、錦之助主演「江戸の名物男・一心太助」を撮り、大ヒットさせる。以後シリーズ化。東映京都が片岡千恵蔵、市川右太衛門ら御大スターに錦之助、東千代之介、大川橋蔵、美空ひばりを擁し、チャンバラ映画量産で全盛を極めていた時代。若手スター作品の担当になって、爽快なスピードがありミュージカル・コメディの楽天性あふれる時代劇を立て続けに連発、チャンバラ映画の歴史に一時代を画し〈東の増村、西の沢島〉と称される。多作でも質を落とさない律儀さと技量でめざましい活躍を続けるが、特に錦之助とのコンビ作が評判を呼ぶ。シリーズ2作目「一心太助・天下の一大事」(58)が京都市民映画祭の主演男優賞と監督賞、「殿さま弥次喜多」(60)がイタリアの喜劇映画祭の作品賞、監督賞を受賞したのがコンビのハイライトとなった。【錦之助との終生の友情】チャンバラ・ブームが退潮すると同時に快調だったキャリアも足踏みを始めるが、東映東京に移って「人生劇場・飛車角」(63)をヒットさせ健在ぶりを示す。同作は、時代劇に代わる東映の新鉱脈・任侠路線の先駆となった。活動を舞台に移した美空ひばりに依頼されたのをきっかけに、この頃より商業演劇の脚本・演出を手掛けるようになる。それでも時代劇にはこだわり続け、65年、錦之助とのコンビを復活させたオムニバス「股旅三人やくざ」を発表。高く評価されたものの時代劇製作激減の方針は止められず、67年、東映との専属契約を解消。69年には三船プロの大作「新選組」を撮るが、次第に演劇の仕事に忙殺されるようになり、ドキュメント・ドラマ「巨人軍物語・進め.栄光へ」(77)が最後の劇場用映画となる。萬屋錦之介(72年に中村錦之助から改名)と忠臣蔵を作る約束は、錦之介46歳の79年、舞台とテレビ・ドラマで果たす。2000年代に入っても旺盛な仕事は続き、氷川きよしの舞台の演出も手掛けている。その演劇作品のほとんどが、時代劇である。