【日本映画を代表する娯楽映画の名匠】本名・牧野正唯。京都の生まれ。“日本映画の父”牧野省三の長男。ペンネームは、正博、雅弘、雅裕、雅広と4度改名した。日本活動写真株式会社の京都撮影所長となった省三のもとで子役として働く。4歳のころから20歳まで169本の映画に出演。京都市立第一商業を25年に卒業、助監督兼俳優として父を補佐する。26年、18歳の時に「青い眼の人形」で監督デビュー。28年には「蹴合鶏」「崇禅寺馬場」「浪人街/第一話・美しき獲物」という3本の野心作を発表。江戸の裏町を舞台にアナーキーな浪人たちの人間模様をリアルに描いた「浪人街」が早くもキネ旬ベスト・テン1位。この時は20歳。脚本の山上伊太郎は23歳、撮影の三木稔は25歳。“マキノ青春トリオ”の時代劇は革命的と言われた。しかし、29年、父が多額の負債を残して死去。今までの自由な創作活動は中止し、各社を転々として娯楽作を撮るようになる。35年、マキノ・トーキーを設立。父の借金返済のため2年足らずで23本撮って37年に解散。日活に入社して「鞍馬天狗」「忠臣蔵」(38)、40年フリーとなって東宝で「昨日消えた男」「家光と彦三」(41)と大ヒット作を撮る。さらに「男の花道」(41)、長谷川一夫の「待って居た男」「婦系図・前後篇」(42)と東宝のドル箱監督となる。【"次郎長"から"高倉健"まで】戦後は「千日前附近」(45)、「待ちぼうけの女」(46)などを撮り、47年フリーとなる。同年、弟が東横映画を設立、誘われて「金色夜叉・前後篇」(48)を撮る。覚醒剤を打ちながら不眠不休で完成したものの、ヒロポン中毒となる。50年、東横に復帰し、黒澤明の脚本で「殺陣師段平」を撮る。52年から54年までは東宝で、次郎長映画の最高峰となる「次郎長三国志」シリーズ9本を撮った。以降も手を替え品を替えて何度もリメイクすることになる。57年に弟が亡くなると、69年「花と竜」まで東映の撮影所以外では映画を撮らなかった。「日本侠客伝」(64)は東映任侠映画の隆盛をもたらした最初のシリーズであり、全11本のうち9作目「同・花と龍」(69)までを演出。マキノ流のいなせな世界に生きる人々を描くとともに、主演の高倉健の人気を不動のものとした。ほかに「昭和残侠伝」シリーズは、「血染の唐獅子」(67)、「同・唐獅子仁義」(69)、「死んで貰います」(70)と3本、そして、藤純子引退記念オールスター「関東緋桜一家」(72)を最後にスクリーンから去り、活躍の舞台をテレビに移した。ちなみに90年、黒木和雄監督が映画化した「浪人街」では“総監修”としてバックアップした。