北海道札幌市の生まれ。本名・有島行光。父は、『或る女』『カインの末裔』『生れ出づる悩み』などで知られる作家の有島武郎。行光が生まれた頃は北海道大学の前身である東北帝国大学農科大学予科教授として札幌に住み、武者小路実篤や志賀直哉と雑誌『白樺』を創刊して作家として出発したばかりだった。一方、北海道虻田郡狩太町(現・ニセコ町)に広大な有島牧場を経営していた武郎の父・有島武は、薩摩藩の藩士から明治新政府に入り、大蔵省国債局長を最後に退官。五男二女があり、その長男が武郎、二男・壬生馬は“有島生馬”の名で画家、四男・英夫は“里見”の筆名で作家となっている。行光の母・安子は、陸軍大将にまで昇進した神尾光臣の二女で、武郎とは1909年に結婚。行光のあとに二男をもうけた。行光が3歳の時の14年、一家をあげて東京市麹町区(現・東京都千代田区)に移る。安子の肺結核の療養のためだったが、甲斐なく16年8月に死去。武郎も23年6月、長野県北佐久郡軽井沢町の別荘で雑誌『婦人公論』の記者・波多野秋子と情死、45歳の生涯を終える。行光は成城中学を経て、28年、成城高校(現・成城学園)へ入り、翌29年に劇団築地小劇場に入団。新劇俳優の道を歩み出す。同時に京都帝国大学(現・京都大学)文学部哲学科に進み、32年に中退。金杉惇郎と長岡輝子の劇団テアトル・コメディに入団する。左翼演劇が主流だった当時の新劇界で、この劇団はフランスの洒落た近代劇を好んで上演した異色のモダンな劇団だった。最初は本名で舞台に立ったが、のちに芸名を“森雅之”とする。36年6月の劇団解散後は、久保田万太郎、岸田國士らが37年9月に結成した文学座に加わり芸を磨く。文学座も当時としてはモダンな喜劇や台詞の文学的な味わいを重んじていた。文学座在籍中の42年夏、東宝の島津保次郎監督「母の地図」に、同劇団の杉村春子とともに脇役で映画初出演。戦争中とあって劇団活動は困難を極めており、以後もあまり目立たない役ではあったが映画にちょくちょく出演する。特に黒澤明監督に請われて、「続姿三四郎」45で四天王の一人、「虎の尾を踏む男達」45(公開は52年)では亀井役を演じた。そして終戦を迎え、まず本格的な映画出演で注目されたのは、47年の吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」。没落貴族のニヒリストの長男を演じ、知的な容姿と洗練された態度によってニヒリストぶりがキザではなくて本物に見え、それまでの日本映画には見られなかったようなインテリジェンスを感じさせる俳優として、一躍話題となる。この一作で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞。たちまち映画スターとしての地位を確立した。48年には再び吉村監督の「わが生涯のかがやける日」に主演。これも戦後の混乱期のさなかを、ニヒリストとして自暴自棄に生きている元青年将校役。知的で屈折した森のイメージ通りの役で、麻薬中毒になって禁断症状でのたうち回ったり、当時はまだショッキングなイメージもあった山口淑子との濃厚なキスシーンがあったりと、大芝居を要求されたが、舞台のキャリアを活かした芝居っ気たっぷりに演じた。一方、太宰治の遺作を映画化した島耕二監督「グッドバイ」49では、軽妙な喜劇演技も披露している。50年、「羅生門」で久しぶりに黒澤明の作品に出演。三船敏郎と京マチ子の日本映画離れのした大熱演が評判になったが、このふたりの超オーバーな熱演をがっちり受け止めて見事なアンサンブルにまとめ上げたのは、森の功績である。旅の武士・金沢武弘を演じ、三船の盗賊・多襄丸と大立ち回りを演じながら人間のエゴイズムのあさましさを鮮やかに見せたり、樹に縛りつけられたまま眼光の冷たさだけで妻の京マチ子を半狂乱に追い込んでいく心理的な圧力を与えたり、若い熱演型のふたりを存分に動き回らせる必然性を、彼の老練な演技が縦横に導き出した。黒澤、三船とは、さらに「白痴」51でもトリオを組む。ドストエフスキーの小説を映画化した同作では、原作のムイシュキン公爵にあたる亀田欣司という主役を演じて、絶妙の名演だった。この人物は戦争で誤って戦犯に指名され、そのショックで時々精神異常の発作を起こす神様のように純粋で善良な男である。こういう現実味の乏しい観念の産物のような人物を、森はその演技力によってリアリティ豊かに作りだしてみせた。戦犯で処刑されようとした時のことを語る長い独白のクローズアップなど、絶品というよりない。こういう気高い演技をする一方、溝口健二監督の「武蔵野夫人」51では知的俗物を軽々と演じ、成瀬巳喜男監督「あにいもうと」53ではやくざっぽい無教養だが妹想いの石工職人を演じるという具合に、インテリから労働者まで、また、成瀬監督「コタンの口笛」59のアイヌの貧しい中年男までと、その演技の幅の広さは驚くばかりである。54年には父・有島武郎原作、豊田四郎監督の「或る女」に出演。作品としては必ずしも成功とは言い難かったが、その強烈な肉体的魅力で女を虜にする外国航路の商船の事務長という、これまた従来とは、がらりと違った役ではあったが、卓抜した演技力で的確にこなした。そして55年の成瀬監督「浮雲」。森雅之の代表作のひとつで、妻がありながら、腐れ縁ともいうべき女・高峰秀子との絆に引きずられていくダメな中年のインテリ男。しかし、そういう男なりの真情が脈々とあふれていて、それはそれなりにひとつの否定しがたい人生であると深く強く感じさせずにはおかないのである。女を冷たく見下すような態度、女と会って語り合っていながら、その言葉がいちいち自己嫌悪となって自分に突き刺さってくるような喋り方、それでいて最後には、はるか屋久島に職を得て女と一緒に行く時には雨の中を抱きかかえるようにして、暗い表情の内側に燃えているものを見せる。そして、病死した女の枕元でこらえきれぬように泣く。その背中で泣く演技は実に情感豊かなものであった。泣く演技がしみじみと心に残る男優は珍しい。この作品でキネマ旬報賞男優賞を受賞している。この55年、溝口の「楊貴妃」では中国の玄宗皇帝を演じた。亡き愛人をあくまでも慕う老人といったロマンティックな姿が似合う中年以上の俳優は、やはり森のほかにはあまりいないことに改めて気づく。その点で日本人離れのしたモダンな俳優であった。五所平之助監督「挽歌」57は通俗的なメロドラマだが、二枚目・森雅之の人気をさらに高める。久我美子演じるヒロインが想いを寄せる、知的でハンサムでさらにニヒルという得意の役どころで、中年男の魅力を遺憾なく発揮した。次いで、今井正監督「夜の鼓」58では、武士の妻と恋仲になり、その夫に斬られる鼓師という地味な役どころを堅実に演じる。成瀬監督「女が階段を上る時」60では、高峰秀子演じるバーのママが心を寄せる妻子持ちの銀行員をさりげなく演じ、黒澤監督「悪い奴ほどよく眠る」60では、汚職をもみ消すために殺し屋まで使う公団幹部という、下には傲岸冷酷で、政界のボスには卑屈な悪い奴を絶妙に演じる。世にも善良な役と悪い奴を両方とも巧みに演じ分ける優れた俳優だったのである。同年の市川崑監督「おとうと」60では文豪・幸田露伴に扮し、作家の内面の微妙な屈折を見事に演じて印象深いものとする。「悪い奴ほどよく眠る」と併せ、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。その後は助演が目立つようになるが、成瀬監督とは最後になった「妻として女として」61で、淡島千景と夫婦となりバーのママの高峰秀子との三角関係を演ずる。今井正監督「武士道残酷物語」63は、中村錦之助(のち萬屋錦之介)が戦国時代から現代まで権力に蹂躙された家系七代を演じたのだが、森は第3話に登場。美少年の錦之助に手をつける男色の殿様を嗜虐趣味たっぷりに厭らしく演じる。西河克己監督「帰郷」64は久しぶりに帰国した男に扮し、娘の吉永小百合と再会し苦悩する姿を描く。谷口千吉監督「カモとねぎ」68では詐欺師グループのリーダーとなり、愛人の緑魔子とのラブシーンも決まっており、そのとぼけた味が忘れられない。堀川弘通監督「狙撃」68はハードボイルド映画の佳作で、森はスナイパー・加山雄三のライバルの殺し屋に扮した。この病老の、加山の恋人を人質に取る非情でクールな殺し屋も実に見事にはまり、その風格は他を圧倒していた。遺作となった舛田利雄監督「剣と花」72は、主人公・渡哲也の退役軍人で古武士的な厳格な父に扮して、威厳を見せていた。戦後の舞台は、東京芸術劇場、劇団民芸に所属し、のちにフリーとなって、新劇に精緻なリアリズム演技を見せる一方、新派にも招かれて、水谷八重子の相手役などで美しい型を見せる。さらに東宝現代劇にも出演するなど、映画と併行して数多くの舞台に出演を重ねた。その間、テレビドラマには、56年のラジオ東京テレビ(現・TBS)の芸術祭奨励賞作『勝利者』に初出演以降、多数に出演。日本テレビ『氷柱』58、『間違いで始まった』60、『妻こそわがすべて』61、『高瀬舟』62、『男嫌い』63、『花は花よめ』73、NET(現・テレビ朝日)『兄いもうと』60、『早春』62、『幻のタンゴ』63、『香華』65、『レモンの涙』『お吟さま』68、『寒椿』71、フジテレビ『落城』『女経』61、『素晴らしき女』62、『嫁ぐ日まで』63、『初恋物語』64、『黄水仙』66、『ふたりぼっち』70、TBS『冷えた茶』『隅田川』62、『ああ!夫婦・虚々実々』66、『時間ですよ』71、NHK『指紋を追う男』62、『横堀川』66、『春のぼたん雪』67、『ある女の四季』68、『別れて生きるとも』『球形の荒野』69、『樅の木は残った』70、『新・平家物語』『霧の旗』『赤ひげ』『氷壁』『らっこの金さん』72などがあり、ドラマの遺作は73年のNHK『ゴチャバンバ行き』。73年、日本テレビ『恋は大吉』に出演したが、その最中の6月2日、自宅で倒れ、以降の代役は中村伸郎がつとめた。同年10月7日、東京都港区の慈恵医大付属病院で直腸癌のために死去。享年62歳。戦後の日本映画を代表する知的な役者の死だった。舞台は72年6~10月の民芸好演『三人姉妹』のトーゼンバッハ男爵、73年1月~2月の東宝現代劇『女橋』が遺作となる。病床での口癖は「やっと芝居がわかってきた時に病気になるとは」だった。39年5月、文学座の堀越節子と結婚し、46年末に離婚。そのまま同年12月、日劇ダンシングチームの吉田順江(としえ)と結婚する。二男あり。また、その前年の45年、元・宝塚スターの梅香ふみ子との間にもうけた娘が女優の中島葵で、彼女とは61年6月、まだ16歳の時に一度だけ会っている。中島もまた91年5月16日、子宮頸癌のため45歳の若さで死去した。