【西部劇の挽歌を奏でるバイオレンス映画の巨匠】アメリカ、カリフォルニア州の生まれ、本人はインディアンの血を引くと自称したが、ヨーロッパ系移民の子孫である。第二次大戦時には海兵隊に従軍し、戦後に大学で演劇を学んだのちにテレビ界へ進んだ。個人的にドン・シーゲル監督と親しくなって師事、テレビ西部劇の脚本・演出が認められ劇場映画監督に進出する。映画製作時には会社とのトラブルが多く、私生活でも結婚と離婚を繰り返した。デビュー作「荒野のガンマン」(61) に続く「昼下りの決斗」(62)でその実力を認められたものの、第3作で会社側と衝突、別企画でも監督解雇など不遇の時期を過ごした。しかしテレビ作品の演出が再評価されて映画界に復帰、1969年の「ワイルドバンチ」における暴力描写やスローモーションの演出が反響を呼び、一躍大作家の地位に躍り出た。いわゆるアメリカン・ニューシネマの時代以降も西部劇やバイオレンス映画づくりにこだわり、「わらの犬」(71)、「ゲッタウェイ」(72)、「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」(73)、「ガルシアの首」(74)といった話題作を送り出す。この間も製作時に揉めたエピソードには事欠かず、トラック野郎軍団の迫力を捉えた異色作「コンボイ」(78)の後にも空白期間を抱え、5年後の復帰作「バイオレント・サタデー」(83)が遺作となった。【復権と破壊と再生の作家】フロンティア精神とヒーローを称える伝統的な西部劇のジャンルも崩壊を迎えた60年代当時、ペキンパーは一貫して西部劇を信望し、「昼下りの決斗」や「砂漠の流れ者」(69)などで西部劇の復権を企んだ。「ワイルドバンチ」もまた懐旧的にアウトローの仁義と連帯を描くものだが、バイオレンス描写が特に注目され、結果的に伝統的西部劇の終焉を映画史に刻んでしまう。以来、暴力描写はトレードマークとなったが、「ワイルドバンチ」も含めたほとんどの作品は賛否両論を招き、興行的に冴えなかったものも多い。アメリカ国内よりヨーロッパや日本での評価が高く、その熱狂的な評価が歴史的監督の位置に押し上げた。製作過程では、いったん脚本を破壊したうえで断片を再構成する方法論を採り、製作側と揉めるのも予算やスケジュールを顧みない個性的な監督方法ゆえであった。その結果、編集段階で会社側に仕切られることも多く、満足のいく作品にできなかった「ゲッタウェイ」や、編集を会社に委ねた「コンボイ」がヒット作となったのは皮肉であった。