神奈川県横浜市の生まれ。本名・會田昌江。会社員の父・藤之助と母・ナミの二男五女の末子に生まれる。1933年、横浜市立高等女学校へ進学するが、2年生の1学期を終えた34年8月、一時期女優をしたことのある次姉・光代の夫で、日活京都撮影所から新設の多摩川撮影所へ移籍して間もない監督の熊谷久虎の訪問を受け、女優になるように勧められる。当時、家庭の経済的事情で女学校を中退せざるを得ないこともあって了解する。しかし、まだ子供っぽく、色が黒く、痩せぎすな彼女の日活入りはおあずけとなる。彼女の素質に自信のある熊谷は、多摩川撮影所長のマキノ満男と宣伝部長・須田健太を自宅に招いて首実験をする。日活もまた新鮮な女優に欠いていたので、彼女を迎えることにし、35年4月、日活多摩川撮影所へ正式入社となった。デビュー作は同年8月15日封切の田口哲監督「ためらう勿れ若人よ」で、芸名は役名のお節ちゃんから“原節子”と命名。次いで「深夜の太陽」「魂を投げろ」と、早くもB級作品では主演級として登場。阿部豊監督「緑の地平線」ではヒロインを演じ、同じ阿部監督「白衣の佳人」36でも重要な助演。そして山中貞雄監督「河内山宗俊」では、弟とふたり暮らしで江戸の盛り場で甘酒屋をやっている可憐な娘に扮し、弟が非行化して家にも帰らないので、博奕打ちの親分に弟を不良にしないでくれと頼み、彼女のあまりの純情さに同情した気のいいやくざ連中が彼女のためにひと肌脱ごうということからドラマが展開していく。原は初々しい生娘の純潔さをあふれさせ、その大きな瞳が特徴的な整った美貌は、日本人離れした彫刻的な感じさえ与えると言われた。この「河内山宗俊」撮影中の36年2月中旬、J・Oスタジオと提携して日独合作映画「新しき土」を製作するために来日したドイツのアーノルド・ファンク監督が原節子を気に入り、主役に起用される。彼女の役は、西洋かぶれしてヨーロッパから帰国した婚約者に失望して、花嫁衣装を着て自殺を試みる純情な娘役。しかし作品自体は滑稽なもので、彼女もあやつり人形のようだった。結局、日活時代の代表作は「河内山宗俊」だけとなる。37年3月、「新しき土」の舞台挨拶のためにベルリンに出かけ、7月末までの4カ月間にわたって、ドイツ、アメリカへ旅し貴重な体験を積んだ。帰国早々、J・Oへ入社。9月、J・OとP・C・Lは新発足の東宝映画株式会社に吸収合併され、彼女も自動的に東宝映画の所属となった。石田民三監督「東海美女伝」37、山本薩夫監督「母の曲」37、「田園交響楽」38、伊丹万作監督「巨人伝」38などの翻訳もので、いずれもヒロインを演じた。以上の作品に出演したのは、彼女は日本人から見ると、西欧風な彫りの深い、瞳がパッチリした精神的な気高ささえ感じさせる女性として評価されたからであった。しかし日中戦争が始まって2年目。そうした彼女の個性を活かした西欧的な女性賛美の香りがするメロドラマや女性映画を作っている時代ではなく、女優の役割は出征する兵士を健気に見送る娘や軍国の妻といった役柄に限定されるようになって、熊谷久虎監督「上海陸戦隊」39、今井正監督「女の街」40、「結婚の生態」41などでの役は、戦時色が色濃く反映されるようになっていった。山本嘉次郎監督「ハワイ・マレー沖海戦」42、今井監督「望楼の決死隊」43、佐伯清監督「北の三人」45では戦争下の国民の士気昂揚のためのヒロインとして起用される。しかし、その間も「忠臣蔵」39、「蛇姫様・前篇」40などの時代劇で美しい姿を見せ、松竹から転じた島津保次郎監督に可愛がられ、「光と影」前後篇、「嫁ぐ日に」「二人の世界」40、「兄の花嫁」41、「緑の大地」「母の地図」42と相次いで出演。島津の熱心な指導により着実に演技を成長させ、製作本数の激減の中、映画女優としての華やかな軌跡を描くという、恵まれた環境に置かれたのであった。そして戦後、原節子は名実ともに大女優となる。その最初のステップとなったのは黒澤明監督「わが青春に悔いなし」46のヒロイン。彼女の役は、学生運動で投獄された父の教え子と結ばれ、夫が日本の戦争拡大に反対して検挙され獄死すると、夫の郷里へ行き、舅と姑のもとで苦労する娘・幸絵。前半は美しく伸びやかな女子学生、中盤は初々しい恋に生きる女、終盤は泥まみれになって土と闘う農夫という三つの姿を見せ、その熱演が強い印象を残した。46年11月、第2次東宝争議で組合の政治闘争化に反対した大河内伝次郎に同調し、長谷川一夫、黒川弥太郎、藤田進、高峰秀子、山田五十鈴、入江たか子、山根寿子、花井蘭子らと“十人の旗の会”を結成して組合を脱退。47年3月に創立された新東宝に参加する。佐伯清監督「かけ出し時代」47に出演後、フリーとなり、松竹大船の吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」47で没落華族の次女に扮し、敗戦によって挫折した父、兄、姉と違って明るく素直に生きる令嬢・敦子を演じた。キネマ旬報のベスト・テンでは、46年に先の「わが青春に悔なし」が2位、47年は「安城家の舞踏会」が1位と、相次いで上位に入る傑作のヒロインとなり人気は急上昇する。49年は、黒澤とともに戦後日本映画を担うと言われた木下惠介監督の「お嬢さん乾杯」に主演。父の苦境を救うために一般の男性と見合結婚に応じる旧華族の令嬢が、生まれも趣味も違う相手との付き合いに悩む姿を好演する。次いで今井正監督の「青い山脈」前後篇に主演。戦後民主主義のもとで恋愛の解放をユーモラスに描いた青春映画の傑作で、彼女は進歩的な考えを持つ知的な先生に扮し、その存在を、輝くばかりの明るく瑞々しい美しさでファンの胸に強く印象付けた。そして、小津安二郎監督「晩春」49。これは大学教授の父親(笠智衆)とふたり暮らしの婚期を逸しかけた娘との愛情を中心に、日本的な生活美学と人間関係の美しさを描いた小津芸術の傑作であった。彼女は早くに母を失ったことから、父を独りにはできないと嫁に行かない娘を、繊細に情感豊かに演じた。黒澤、吉村、木下、今井など諸作の彼女が戦後民主主義の輝かしい象徴であったのに対して、「晩春」での彼女は戦前からよくしつけられたお嬢さんであり、どちらかと言うと保守的な美しさに深い魅力を感じさせるものであった。同作はその後の小津調を確立する記念碑的作品となり、彼女にとってもひとつの転機となった。この49年は「晩春」1位、「青い山脈」2位、「お嬢さん乾杯」6位で、毎日映画コンクール女優演技賞も受賞し、名実ともに日本のトップクラスの女優となったのである。そして51年には、まず黒澤がドストエフスキーの名作を映画化した「白痴」に主演。原作のナスターシャにあたる那須妙子に扮し、金持ちの妾でありながらも純粋に生きたいと苦悩する娘を熱演。次の小津の「麦秋」では、婚期を失いかけたOLに扮し、結婚相手に再婚で、しかも子供のいる医師のもとへ嫁ぐ、知的で堅実な娘を演じた。さらに成瀬巳喜男監督の「めし」では、上原謙との恋愛結婚の感激もすでに遠く、新鮮な感情は失われ、倦怠と焦燥感に満ちた妻を演じた。一度は家を出るが、結局は夫の元へ帰って来る、つつましくとも夫との愛情のある生活に心の平安を見出すといった女を、寂しげなニュアンスを巧まずして表出。ベスト・テンでは「麦秋」が1位、「めし」が2位。同時に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。次いで小津作品では、53年に「東京物語」に出演。久しぶりに上京してきた年老いた父母を、生活の忙しさからなかなか面倒を見られない息子・娘たちの中で唯一、親身になってかいがいしく面倒を見る戦死した次男の嫁をしみじみと奥深く演じて、この人間洞察の鋭さにあふれた小津の傑作に大きく貢献した。次いで成瀬監督の「山の音」54では、忍従の辛さを噛みしみて寂しく生きる人妻をきめ細かく演じた。陰りがあり、憂いをたたえ、しかも知性と温かい人間性を漂わせるという人妻は、原節子の独壇場といってもよく、その成熟した女らしい落ち着きは、彼女が日本映画界の最高の女優であることを遺憾なく認識させた。しかも、いまだに未婚で、小津監督との結婚も噂されたが、これも消滅。いつか“永遠の処女”とうたわれるようになった。この49年~54年をピークとして、その後の彼女はこの時期を上回るような活躍を見せることはできなくなった。そのひとつは白内障にかかったことで、54年1月早々、熊谷監督の「かくて自由の鐘は鳴る」を降板。その後、熊谷宅で食事療法を続け、同年11月に手術を受けた。経過は良好で、55年3月には再起第1作として、熊谷が新東宝で製作する倉田文人監督「ノンちゃん雲に乗る」に出演する。“明眸よみがえる”と祝福されたこの作品では、初めての母親役。成瀬監督「驟雨」56では佐野周二と再び倦怠期のサラリーマン夫婦を演じた。57年には小津監督に久々に起用され、「東京暮色」では気持ちの不安定な妹(有馬稲子)のしっかりした気性の姉、続いて「秋日和」60では亡夫への追慕から周囲の勧める再婚を断る未亡人、「小早川家の秋」61では子供を抱え画廊に勤める未亡人を演じ、成熟した中年女性の輝きを見せた。また成瀬監督「娘・妻・母」60では、安住の地を失った老母を引き取るという求婚の言葉に、恋をあきらめ財産家と再婚する未亡人を演じたが、小津、成瀬の作品における彼女は、日本女性のつつましい控え目な態度の内側に秘められた芯の強さを演じ続け、そこにこの保守的なふたりの巨匠の理想の女性像があった。ほかに、熊谷監督「智恵子抄」57では高村光太郎の妻・智恵子、千葉泰樹監督「大番」四部作57~58では主人公のマドンナ、稲垣浩監督の大作「日本誕生」59では天照大神、久松静児監督「路傍の石」60には主人公・吾一少年の母親役をしっとりと演じた。そして62年11月3日封切の「忠臣蔵」に松本幸四郎の大石内蔵助の妻・りくの役で出演。その後、気に入った企画もないままに出演作はなく、まだ42歳で引退のかたちとなった。女の盛りを過ぎたとはいえ、女優としてはまだこれからという時で、美しい中年女性としては絶品と定評があったにもかかわらず、以後、ジャーナリズムとも一切、交渉を絶った。引退の理由は必ずしもはっきりとはしないが、40歳を過ぎたら衰えた姿をさらさないために引退すると言っていたとも伝えられる。以降は、さまざまな“原節子本”が出版され、その度にマスコミが話題にしたが、それらの問いかけにも応ぜず、永遠の処女、不滅の大スターとしての名声を伝説の域にまで高めながら今日に至っている。2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去。享年95歳。