京都府京都市の生まれ。本名・太田吉哉。父・松太郎、母・富久のもとに生まれるが、誕生の翌年、松太郎の実姉の夫で関西の歌舞伎俳優・市川九団次の養子となり、竹内嘉男を名乗る。大阪市立桃ケ丘小学校、大阪府立天王寺中学(現・天王寺高校)に学んだ。小学校時代は医師志望だったが、やがて歌舞伎俳優となる決心を固め、1946年11月、三世市川莚蔵の名で大阪・歌舞伎座で初舞台を踏む。5年後の51年、関西歌舞伎界の長老・市川寿海に望まれて養子となり、同年6月、大阪・歌舞伎座において八世市川雷蔵を襲名した。武智歌舞伎に参加して厳しい薫陶を受けたのも、中村錦之助(のち萬屋錦之介)と同じ舞台に立って無二の親友になったのも、すべてこの歌舞伎俳優時代のことである。53年、大映より映画界入りを進められるが即決せず、翌年になってようやく承諾するという慎重さだった。当時はニキビだらけの青年で、眼鏡をかけた素顔は普通のサラリーマンと変わるところがなく、スターになるかどうかは本人も大映も不安であったらしい。事実、関西歌舞伎俳優をスカウトしようとしたあるプロデューサーが、「雷蔵があんな大スターになろうとは想像もつかなかった」と残念がった話が伝えられている。大映の第一回作品は54年の田坂勝彦監督「花の白虎隊」で、同じ頃に入社した勝新太郎も脇役でデビューしている。主演待遇の雷蔵に対して、当時はさして期待もされていなかった勝のデビューに関して、その複雑な感情は「勝新太郎」の項を参照していただきたい。スター市川雷蔵の15年間はこの作品からスタートするのであるが、この15年という歳月は雷蔵ファンにとっては、余りにもはかなく短い。しかし、雷蔵にとっての15年は概して順調で幸運にも恵まれ、スクスクと成長した。入社1年で、巨匠・溝口健二監督の「新・平家物語」55に抜擢されたのが、まず第一の幸運だった。彼は抜擢に応え、すさまじい気魄と負けず嫌いの努力によって見事に青年・清盛を演じた。次の幸運は、三島由紀夫原作、市川崑監督の「炎上」58である。だが撮影所首脳部にとって、美男俳優として売り出し中の雷蔵に、国宝の寺院に放火して自殺する吃音の僧侶を演じさせるのは、常識では考えられないことであり、雷蔵出演に強く反対。雷蔵は1年以上もその機会を待ち、自らも会社首脳部を説得して、見事出演にこぎつけた。この熱演によってキネマ旬報賞男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞し、確固たるスターの地位を築いたのである。出演映画は別記の153本(「仲よし音頭・日本一だよ」62は顔出し程度なのでリストには入れない)で、これを前・中・後の三期に分けるとすれば、ちょうど「炎上」のあたりまでが前期に相当するのではないか。前期の作品がすべて満足できるわけではないが、もともと雷蔵の口跡は養父・寿海ばりの名調子であり、ひとたびメイクアップをほどこせば別人のような品格が備わり、娯楽映画ではただひたすら美しく颯爽と活躍し、額に垂れ下がるひと筋の黒髪がなんとも言えぬ色気をたたえた。「美男剣法」54、「次男坊判官」55、「花の渡り鳥」「浅太郎鴉」「月形半平太」「編笠権八」56、「弥太郎笠」「鳴門秘帖」「桃太郎侍」57、「人肌孔雀」58などは大いにファンを魅了し、「朱雀門」57では幕末のロマンを切々と謳い上げ、「忠臣蔵」58の浅野内匠頭は風格と哀切の点で、戦後「忠臣蔵」映画の中でも絶品と讃えられた。第二期にあたる中期は演技の面でも実生活の面でも最も充実し、幸せでかつ実り多い時期であった。「若き日の信長」59、「新選組始末記」63の凛然たる気魄、泉鏡花の名作に肉迫した「歌行燈」60、あるいは女装のお色気と哀愁と、そして御用提灯の波が印象的だった「弁天小僧」58、「忠直卿行状記」60では孤独の陰りが深く、虚無の剣士・机竜之助を演じた「大菩薩峠」61はその後に来たる“眠狂四郎”の先駆でもあった。「炎上」に続く野心作は、同じ市川監督「破戒」62の瀬川丑松。ここで雷蔵は、風雪の信州路を背景として、苦悩の内面描写に一段と演技の深さを実証した。さらに清冽、薄命の主人公を見事に演じ切った一連の悲劇「薄桜記」59、「斬る」62、「剣」64がある。どれも悲しく、純粋で、胸を打つ。しかし、雷蔵作品はこれらの悲劇一辺倒ではない。この期の娯楽映画は「遊太郎巷談」「人肌牡丹」「かげろう絵図」59など、いよいよ美しく、いよいよ豪華に、そして悲劇と正反対の明るくユーモラスな作品も多いということにも注目しなければならない。この傾向は、すでに前期の「綱渡り見世物侍」55、「又四郎喧嘩旅」「喧嘩鴛鴦」56、「旅は気まぐれ風まかせ」「女狐風呂」58などにも見られ、それが“濡れ髪”ものと呼ばれて好評を博し、「濡れ髪三度笠」59、「濡れ髪喧嘩旅」60、「濡れ髪牡丹」61や、橋幸夫と共演の「おけさ唄えば」61に繋がり、さらに「ぼんち」60の軽妙洒脱な演技へと続くのである。実生活の雷蔵は、明るく朗らかな青年で、ずいぶんと茶目っ気もあり、言いたいことはズバリと言って、それで誰からも愛された。撮影所ではいつも浴衣姿に、“雷”という焼印を押した下駄をはき、カタンコトンと音立てて廊下や階段を歩いていた。それでいて、非常に合理的な考えを持っており、スターであると同時にプロデューサーや撮影所長も立派につとまるような傑出した人物であった。「破戒」を撮り終えた直後の62年3月27日、当時の永田雅一大映社長の養女・遠田恭子(のち改名して雅子)と結婚。夫婦で町を歩くと、いつも人々からジロジロ見られて困ったが、「祇園祭の宵山の夜の四条通りは数十万の群衆で大混雑、おかげでその夜、二人で手をつないで歩いた気分は全く幸福感に溢れる思いでした」と自ら記するほど、幸せな時期だった。61年、日本で最初の70ミリ映画「釈迦」では養父・寿海もアジャセ王の父・ビンビサーラに扮して出演。クナラ王の雷蔵は、終始つきっきりで父の面倒を見ていた。また60年8月、65年11月、66年9月の3回、大阪・歌舞伎座で、64年1月には日生劇場で、計4回の舞台公演を行なっているが、60年の時は寿海とともに舞台に立ち、『浮名の渡り鳥』で共演、劇中劇で『鈴ケ森』を見せた。日生劇場では『勧進帳』の富樫、石原慎太郎・作『一ノ谷物語・琴魂』を演じ、優れた舞台俳優としても賞賛を受けた。さらに65年4月には同志社大学に招かれ、『人間が人間を創造するとき』と題した講演を行なった。そんな一面もあったのである。第三の後期にはシリーズ作品が多くなる。「眠狂四郎」12本、「忍びの者」8本、「若親分」8本、「陸軍中野学校」5本、合計33本という数字は、雷蔵の全作品のうち5分の1にあたる。「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」は最初はシリーズにするつもりはなかったが、興行的にヒットしたため、続編、続々編が要求され、シリーズへと発展した。「眠狂四郎」は田中徳三監督がまず映画化を提案したもので、これは最初からシリーズが予定された。出生の秘密を抱く虚無の剣士は雷蔵こそ最も相応しいと高く評価され、各種各様の佳作を放って代表的シリーズとなった。「ある殺し屋」と「ある殺し屋の鍵」67は別個の作品だが、ともに優れた映画であり、この2本を「殺し屋」シリーズと呼ぶ場合もある。そしてこれらのシリーズ群に囲まれて、雷蔵の最後を飾ったのが増村保造監督「華岡青洲の妻」67と、池広一夫監督「ひとり狼」68であろう。「華岡青洲の妻」と「ある殺し屋」の演技によって再度、キネマ旬報賞男優賞を、また京都市民映画祭でも「剣」「ある殺し屋」に次いで3度目の主演男優賞を獲得した。村上元三原作の「ひとり狼」は、10年前の雷蔵の強い願望がやっと実現を見たもので、彼が最後の力をふりしぼった慟哭の叙事詩であった。
68年5月、「眠狂四郎人肌蜘蛛」を撮り終えると順天堂病院に入院して、直腸の手術を受けた。経過は良好と伝えられたが回復は手間取り、秋から69年1月にかけて、かろうじて「眠狂四郎悪女狩り」と「博徒一代・血祭り不動」の2本を完成したにとどまった。しかも立ち回りなどはすべて吹き替えに頼らねばならぬありさまで、次作「関の弥太っぺ」を3日ばかり撮影して倒れた。1月半ばに帰京した時は、癌がすでに全身を冒していたようだ。そうとは知らずに、さらに次回作が「千羽鶴」、3月には明治座公演が予定されていたが、どれも実現することはなかった。また雷蔵の念願であった新劇団・テアトロ鏑矢(かぶらや)の結成と第1回公演に準備した『海の火焔樹』3幕4場の上演も永遠の夢となった。朝日生命成人病研究所に入院した雷蔵は、「病み衰えた顔を見られたくない」と固く面会を謝絶し、69年7月17日、37歳の若さで世を去った。雷蔵が没して5年が経った74年12月、三人の女性を中心に“市川雷蔵を偲ぶ会”というファンの会が発足した。瞬くうちに会員数は500人を突破し、81年頃からはファン活動にとどまらず雷蔵のフィルム保存とその業績の伝承に会の方向を発展させ、名称を“朗雷会”に変更。幅広い年齢層のファンが今もなお、雷蔵人気を次世代に継承させている。雷蔵ブームはたびたび再燃し、現在も毎年のように『市川雷蔵映画祭』などの特集上映が行なわれる。また、最後に付言すると、京都市四条通りを東に突き当たれば、祇園祭で有名な八坂神社の赤い楼門が建ち、門をくぐると直ぐ左右に一対の石灯篭がある。右に「三代市川寿海、八代市川雷蔵」、左に「三代市川九団次、妻亀崎ハナ」の文字が刻されている。雷蔵が寿海の養子に迎えられた時に一家が八坂神社に献納したもので、今はすでにこの四人は亡い。人の世の無常感が胸に痛いが、雷蔵父子を偲ぶ一基のよすがのあることを伝えたい。