【戦後、東映時代劇全盛時の巨匠】京都市の生まれ。“日本映画の父”牧野省三が、知世夫人に実家に帰られ、孤独の寂しさからか遊んだお茶屋の女将と馴染みを重ねて生ませた一児が松田で、マキノ雅裕とは異母兄弟となる。中学を出た1921年4月、父の主宰するマキノ教育映画撮影所技術部に入り、撮影助手となる。以降も、父に従って23年6月マキノ等持院、24年7月東亜等持院撮影所、25年3月東亜マキノ等持院と移り、同年5月、二川文太郎監督「或る殿様の話」で一本立ちのカメラマンとなる。同年6月、牧野省三はマキノプロダクションを設立、松田もここに移り、28年に助監督に転じ、同年「かわいさうな大九郎」で監督デビューする。29年7月25日、父の死により、30年マキノを退社し翌31年に帝キネ、同年新興キネマ、36年マキノ・トーキー、38年には日活京都、42年には大映京都と、めまぐるしく所属を変える。その間に嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」シリーズや、「天保水滸伝」(34)、「松平外記」「丹下左膳・乾雲必殺の巻」「弥太郎笠」(36)、「北海に叫ぶ武士」(40)、「高田の馬場」(44)など多数の時代劇を撮った。【東映オールスターものの監督として】戦後は東横映画を中心に、大映、日活で仕事をする。当時は時代劇禁止令が出ていたので、互いに苦境にあった片岡千恵蔵と、大映“多羅尾伴内”シリーズ「七つの顔」「十三の眼」(47)、「二十一の指紋」「三十三の足跡」(48)など、東横では“金田一耕助”シリーズ「三本指の男」(47)、「獄門島」(49)、「八つ墓村」(51)、「悪魔が来たりて笛を吹く」(54)などを撮り、現代劇でも新風を巻き起こした。51年4月の東映発足後は、東映時代劇の大御所として君臨。片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大の作品を撮りつづけ、東映王国の礎となった。東映名物のオールスター“忠臣蔵”も「赤穂浪士/天の巻・地の巻」(56)、「忠臣蔵/櫻花の巻・雪花の巻」(59)、「赤穂浪士」(61)と三度映画化しており、とくに右太衛門が大石内蔵助を演じた56年版は、戦後の数多くの忠臣蔵でもっとも評価の高いものだった。同じ右太衛門とは「旗本退屈男」シリーズ、「旗本退屈男捕物控・前篇七人の花嫁/後篇毒殺魔殿」(50)、「旗本退屈男・どくろ屋敷」(54)、「旗本退屈男・謎の幽霊船」(56)、「旗本退屈男・謎の紅蓮塔」(57)などでコンビを組んだ。そして、千恵蔵ほかのオールスターもの「任.清水港」(57)、「任.東海道」(58)、「任.中仙道」(60)、「勢揃い東海道」(63)など。他にも大友柳太朗の「丹下左膳」シリーズや、初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」(57)、大川橋蔵の「新吾十番勝負」シリーズなど、盆・正月の書入れ時には必ずといってよいほど“松田定次”の名前が登場したものである。