【反戦・反権力の完璧主義者】オーストリア、ウィーンの生まれ。幼少期からヴァイオリンを習い、音楽家になろうと思うが、ウィーン大学に入る頃は弁護士になるために法科を選んだ。だが、この頃見た2本の映画が彼の未来を変えた。エリッヒ・フォン・シュトロハイムの「グリード」(23)と、キング・ヴィダーの「ビッグ・パレード」(25)である。27年、パリに映画撮影技術学校が創立されると第1期生として入学。1年半の技術修得ののち、ベルリンへ行き1年間、撮影助手を経験、そして助監督になった。29年、アメリカへ渡る。31年、ドイツからやって来たベルトルト・ヴァイアテル監督の助監督になり、彼からドキュメンタリーの巨匠ロバート・フラハティを紹介され、彼の助手としてベルリンに戻り、中央アジアの少数民族のドキュメンタリーの準備にとりかかった。結局、この作品は実現しなかったが、その後の彼の作風に大きな影響を与えることになる。35年、メキシコのヴェラ・クルスの漁村の漁師を描いたセミ・ドキュメンタリー“Redes”を撮り好評を得た。その後、短編をいくつか撮り、“That Mothers Might Live”(38)ではアカデミー賞短編賞を受賞する。【アカデミー賞の常連監督】34歳で初の長編“Kid Glove Killer”(42)を撮り、48年、ナチの収容所から救出された少年とアメリカ兵の交流を描いた「山河遥かなり」(48)を撮った。当時のアメリカは思想弾圧が激しくなり、左翼系映画人の海外追放が露骨となるが、ジンネマンは52年、スタンリー・クレイマー(製作)、カール・フォアマン(脚本)、ディミトリ・ティオムキン(音楽)ら問題児たちと西部劇「真昼の決闘」を作った。主演のゲイリー・クーパーがアカデミー賞主演男優賞受賞。続く「地上より永遠に」(53)は、真珠湾攻撃直前のハワイのアメリカ軍を舞台に様々な人間模様を描いた作品。アカデミー賞作品・監督賞など6部門を受賞した。スペイン内乱の後日談という形で人間の憎しみと執念を描いた「日曜日には鼠を殺せ」(64)、そして権力に抵抗し信念に生きたトーマス・モアの生涯を描いた「わが命つきるとも」(66) で再びアカデミー賞作品・監督賞など6部門を受賞した。ドゴール暗殺を目論む“ジャッカル”の行動を冷徹に描いた「ジャッカルの日」(73)、女性二人の生涯にわたっての友情を描いて感動的な「ジュリア」(77)、そして、アルプスの氷壁を目指す男女の屈折した関係を描いた「氷壁の女」(82)。ジンネマンの作品は、時代の先端を走り、作品数は少ないが、1作ごとに問題を提起し話題となった。常に反戦・反権力を訴え、その律儀なほどの製作態度、そして完全主義は生涯変わりがなかった。