【透明な孤独と死の匂いを漂わせる映像詩人】山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)の生まれ。本名は“やさき”と読む。1975年、日本大学芸術学部映画学科に入学、同期の長崎俊一に触発されて8ミリ映画の製作を始める。監督作「裏窓」(75)、「冬の光」(77)を発表するが上映の機会が少なく、当時はあまり注目されなかった。その後、長崎の映画製作に協力し、8ミリ、16ミリの4作品に助監督としてついた。79年、長崎らとともに“プロダクション爆”を結成し、82年までここを創作活動の拠点とした。80年、初の16ミリ長編「風たちの午後」を監督。全編に漂う静謐で張りつめた空気感が話題となり、16ミリの自主映画としては異例のヒットとなった。同作でヨコハマ映画祭の自主製作映画賞を受賞。エジンバラ国際映画祭ほか多数の海外映画祭にも招待された。その後、大学を中退し、映画とは関係のない仕事に就いていたが、88年春に自主製作による16ミリ新作をクランクイン。諸事情からの撮影中断を挟んで、91年にようやく「三月のライオン」の題名で完成した。翌92年に劇場公開された同作は、ベルリン、ロンドンほか各国の映画祭に招待され、海外から評判を高めていった。95年、文化庁芸術家海外研修員として渡英。その後、ロンドンに住居を移し、2000年にはロンドンが舞台の3時間56分の大作「花を摘む少女と虫を殺す少女」を、外国人スタッフ・キャストと組んで完成させる。続く06年の「ストロベリーショートケイクス」では、それまでの映画製作とは異なりプロの俳優を積極的にキャスティング。デビュー作から20数年を経て、初めて自らを商業映画の枠組みの中に置いた。最新作「スイートリトルライズ」(10)も人気作家・江國香織の同名小説を、中谷美紀、大森南朋の主演で映画化したものである。【ストーリーよりの空気感を大事に】70年代後半からの自主映画のムーブメントに乗り、大林宣彦や大森一樹の商業映画進出に続いてインディーズ界に登壇。盟友の長崎俊一が先駆者を追ってATG映画に乗り出したあとも、個人作家として活動を続けた。このため、一部での評価は高くとも知る人ぞ知る存在となり、また極端な寡作家でもあったため、近年まで消えた監督のようにも思われていた。転機となった「ストロベリーショートケイクス」以降も寡作の人であることに変わりはないが、ともあれ遅れて商業映画のフィールドにやって来た矢崎は、自主映画時代からの静謐さと透明感、孤独と死の匂いという独自の美意識をそこでも貫き通す。矢崎自身は「ストーリー自体には何の興味もなく、その時に流れている空気だけで映画は成立する」と度々語っているが、自主映画時代から現在まで、その方法論は周到に、大胆に練り上げられる。特に近作の「スイートリトルライズ」では、それらの確信犯的な度合いがいっそう強められた。