【起死回生の40代デビューから、カンヌ映画祭常連監督へ】東京都文京区本郷の生まれ。学習院高等科を卒業後、フォーク・シンガーを目指して高田渡に師事。林ヒロシの名で活動し、22歳の時に自主制作レコード『とりわけ10月の風が』を発表する。その後、牛乳配達、コンピューター会社社員、喫茶店ウエイターを経て郵便局に就職。5年後の27歳の時に退職し、フランソワ・トリュフォーに弟子入りするため単身渡仏。トリュフォーに会うことは叶わず、1年をパリに暮らす。帰国後、業界紙の記者として働きながら脚本を書き始め、『名前のない黄色い猿たち』が第八回城戸賞を受賞。それを機に野村芳太郎と松本清張のプロダクション“霧プロ”に出入りしアニメやテレビドラマ、ピンク映画の脚本家として活躍するようになる。1996年、脚本家時代の貯金と人材を注ぎ込み、初監督作「CLOSING TIME」を自主製作。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で日本人初のグランプリを受賞する。続く「海賊版=BOOTLEG FILM」(98)、「殺し」(00)、「歩く、人」(01)が3年連続でカンヌ映画祭へ出品される。2005年、前年イラクで起きた日本人人質事件を材にとり、4度目のカンヌ出品作となった「バッシング」で世界的な注目を集める。そして自ら主演もつとめた「愛の予感」(07)が、スイスのロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)を獲得。カンヌ、ロカルノをはじめ世界一級の国際映画祭の常連となり、最も知名度の高い現役日本人監督のひとりとなった。【荒涼とした北の大地との親和性】脚本家時代は小林宏一の名義も使用、特にピンク映画のサトウトシキ監督とのコンビ作で名を馳せた。作家主義にもとづくインディーズ監督として活動。デビュー以来、おおよそがセルフ・プロデュース作品であり、自身の企画・脚本に則って創作活動を続けている。「海賊版=BOOTLEG FILM」の撮影で訪れて以来、北海道を舞台にするのを好み、とりわけ苫小牧では「フリック」(04)、「バッシング」(06)、「愛の予感」「幸福/Shiawase」(08)の4本を製作。また「気仙沼伝説」(06)と「ワカラナイ」(09)は宮城県気仙沼市で撮影しており、北の地方特有の青みがかった風景と荒涼、寂寥感を反映させた舞台設定にこだわりをみせる。「低予算でいい映画を作るには脚本が命」と語る。その独創性と早書きはよく知られるところ。登場人物の行動・動作の反復からダイナミズムを生み出す演出が特徴的で、アルコール中毒者の妄想劇「フリック」よりそれは顕著になり、「愛の予感」で確立される。特異な風貌を生かして同作には主人公役で主演し、「ワカラナイ」にも助演で出演している。シンガーだった経歴から主題歌も手がけるなどして豊富な経歴を映画に役立て、年1本のペースで新作を発表。09年には3本もの作品を撮り上げた。