【「紅いコーリャン」で遅咲きの監督デビューをした第五世代の中心】中国、陝西省西安生まれ。国民党の軍人である父のため文化大革命中は迫害の対象となり、貧しい少年時代を過ごす。18歳の時に農村へ下牧され、農作業に従事。3年後に紡績工場へ配属され、28歳までの7年間を労働者として過ごす。この間、働くかたわら写真を撮りはじめる。文革終結後の1978年、入学試験を再開した北京電影学院撮影学科に入学。年齢制限を5歳超えていたが、文部大臣に相当する当時の文化部長ホアン・チェンに手紙を書き、特例として入学許可を得る。学院には監督科のチェン・カイコー、ティエン・チュアンチュアンをはじめ、後の中国映画界で活躍する第五世代の面々が大勢在籍していた。82年に学院を卒業。カメラマンとしてチャン・チュンチャオ監督作品「一人と八人」(84)、チェン・カイコー監督「黄色い大地」(84)と「大閲兵」(85)に参加し、「古井戸」(87) では主演も務める。87年、「紅いコーリャン」で初監督。デビュー作にしてベルリン国際映画祭金熊賞を獲得し、一躍中国映画ニュー・ウェーブの中心的存在となる。【映画界の枠を超え中国を代表する存在に】「紅いコーリャン」、「菊豆」(90)、「紅夢」(91)に代表される初期作品では、赤を強調した強烈な色彩感覚と構図の美しさ、オリエンタリズムを意識させる世界観でアジアのみならず欧米でも人気を博す。5作目の「秋菊の物語」(92)ではドキュメンタリー・スタイルを取り入れて、新境地を開拓。ベルリンに続きヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、順調なキャリアを築く。しかし続いての作品「活きる」(94) が文革時代を批判的に描いたとして中国国内で公開禁止となり、5年間、海外との合作を禁じられる。この頃、デビュー以来すべての作品に出演していた女優コン・リーとのコンビを解消。新たなヒロインに新人女優チャン・ツーイーを見い出し、「初恋のきた道」(99)を発表する。長年来の夢だった武俠映画「HERO」(02)、「LOVERS」(04)では、それまで無縁だったワイヤーアクションと特殊効果に挑戦し、色彩と様式美はさらにパワーアップ。国内外で大ヒットを記録し、エンタテインメント映画においても手腕を発揮。また、「単騎、千里を走る。」(05)では、自身が敬愛し中国でも一時期人気を博した高倉健を起用、中国を旅する日本人の物語を描いた。映画以外の演出家としても活躍しており、98年にプッチーニのオペラ『トゥーランドット』を紫禁城で公演。2008年の北京オリンピックでは開会式と閉会式の演出という国家的大任を務め、映画界の枠を超えて現代中国を代表する存在となった。なお、コン・リーとは最近作「王妃の紋章」(06)でコンビを復活している。