【反戦映画「大いなる幻影」で一時代を画す】印象派の画家オーギュスト・ルノワールの次男としてパリのモンマントルで生まれた。幼い頃は父のモデルを務めさせられ、「ズボンを履いているにもかかわらず、僕のことを女の子と思った人が多かった。町のいたずらっ子らは僕をマドモワゼルとはやしたてたものさ」と述懐している。兄ピエールは俳優となり、弟クロード(シニア)は助監督、プロデューサーとしてジャンを手伝った。ピエールの息子クロード(ジュニア)もジャンの仕事を手助けし、低予算映画ではカメラを担当し、やがて撮影監督としてゆるぎない地位を築くことになる。ニースのエコール・マシナ、エクス・アン・プロヴァンスの大学で数学と哲学を学ぶ。第一次大戦では騎兵隊、空軍に所属するが、1918年に負傷し、父が避寒していたコートダジュールでモデルのカトリーヌ・エスラン(通称デデ)と知り合う。父は死の直前まで絵筆を取っていたが、19年12月に死去し、数週間後にジャンは父の絵のモデルだったデデと結婚、21年には息子アランが生まれた。ジャンとデデは毎日のように映画を見に行き、ジャンはアメリカ映画に惹かれていった。23年、ロシア難民のイワン・モジューヒンとともに実験映画“Le brasier ardent”を撮る。25年に初監督。26年、エミール・ゾラの小説を基にした「女優ナナ」を撮る。高く評価されたものの、興行的には失敗し、借金を返すために父の絵のいくつかを売らなくてはならなかった。友人ピエ―ル・ブラウンベルガーに軍隊喜劇「のらくら兵」(28)を撮る機会を与えられ、この作品で初めて組んだ俳優ミシェル・シモンとは長い付き合いとなる。【戦時中はアメリカで映画作り】「大いなる幻影」(37)、「獣人」(38) とジャン・ギャバン主演作を撮り、39年に「ゲームの規則」を発表。戦火を避けて39~40年はイタリアに滞在し、40年にロバート・フラハティの仲介で渡米し、41年に20世紀フォックスと契約。「南部の人」(45)、「小間使の日記」(46)を撮り、46年には市民権を取得するもフランス国籍を捨てることはなかった。インドを舞台にした「河」(50)を撮り、イタリアで「黄金の馬車」(52) を手がけ、フランスに戻って「フレンチ・カンカン」(54)、「草の上の昼食」(59)を撮るが、戦前ほどの成功は収められなかった。晩年はアメリカで暮らし、クリフォード・オデッツの劇を演出したり、カリフォルニア大学バークレー校で講義をしたりしてすごした。父の思い出をつづった『わが父ルノワール』を48年に、自伝『ジャン・ルノワール自伝』を74年に発表している。