【アメリカ映画の父】アメリカ南部ケンタッキー州ラグランジで生まれ、南軍大佐だった父から戦争の話を聞かされて育つ。その生い立ちから人種差別的な描写が映画に織り込まれることになった1895年から地方の劇団で俳優となり、99年からニューヨークの舞台に立つ。劇作家を目指すも芽が出ず、エジソンの撮影所に脚本を売り込むが成功せず、しばらくは俳優の仕事をしていた。1908年にバイオグラフ社と脚本家兼監督として契約し、13年までに450本以上を撮っている。ギャングスター映画の第一号といわれる「ピッグ横丁のならず者」(日本ではフィルムセンターで上映)を初め、「イノック・アーデン」「ニューヨークの帽子」などを手がけ、クロースアップ、カットバック、フラッシュバックといった映画作法の基本というべき手法をマスターし、後年“アメリカ映画の父”と呼ばれることになる。リリアンとドロシーのギッシュ姉妹やリチャード・バーセルメスといった常連の俳優を抱え、撮影にビリー・ビッツアーを擁して、次々に作品を撮っていった。それまで二巻が標準だった13年に、「ベッスリアの女王」を四巻ものとして完成させた。観客は長い映画に耐えられぬと考えていた会社側は激怒し、公開は棚上げにし、彼に演出ではなく事務の仕事を命じたので、ミューチュアル傘下に移籍。15年に私財を投じて十二巻もの「國民の創生」を監督。通常の入場料が25セントのところを高額の2ドルとし、危ぶむ興行者の不安をよそに1100万ドルという大ヒットする(インフレを考慮に入れれば、歴代一位といわれているほど)。莫大な製作費をかけても、それを回収できるだけの観客がいることを実証し、業界は改めて長編大作に注目するようになる。ついで「イントレランス」を撮るが、第一次大戦への参戦気分が高まっているときに、映画の描く平和主義は受け入れられず、興行的には大失敗し、グリフィスは負債を抱え、以後その返済に追われることになる。【スター3人とともにUAを創立】19年にチャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスとともに配給専業のユナイテッド・アーティスツ(UA)を設立。「散り行く花」(19)、「東への道」(20)、「嵐の孤児」(21) などをUAから発表する。25~26年にはパラマウントに一監督として入社し、3本を製作。27年にUAに復帰して「男女の戦」(28)などを監督するが、すでに彼の手法、内容は古めかしく、観客の望むものと大きくずれており、過去の人となっていた。32~33年にUAの株を売却して引退し、36年にアカデミー賞特別賞を受賞した。