【偏屈で独創的な映像センスの完全主義者】過去には“カブリック”“クーブリック”とも表記された。アメリカ、ニューヨークのユダヤ人開業医の家に生まれ、13歳の頃から写真に熱中、高校卒業後に『ルック』誌へ入社しカメラマンとして働いた。組写真を使った短編記録映画を作ってから映画製作への興味を高め、53年、身内の資金をもとに自主製作で「恐怖と欲望」を完成させる。続く自主作品「非情の罠」(55)がUA社によって一般劇場に配給され、プロデューサー志望の知人と製作プロダクションを創設、本格的活動に入った。後期作品の製作総指揮ヤン・ハーランは義弟。27歳の時にハリウッドで撮影した「現金に体を張れ」(56)や、次作のカーク・ダグラス製作・主演の「突撃」(57)は高く評価された。しかしダグラスに抜擢され代打監督に挑んだ大作「スパルタカス」(60)では作品管理が思うようにならず、映画自体は好評価を得ながらも“自分の作品ではない”と総括している。以降は企画から脚本・撮影・製作のすべてをコントロール下に置き、予算や検閲の関係でイギリスに赴いた「ロリータ」(62) 以後のすべての作品がイギリスで撮影されることになる。俗にSF三部作と呼ばれる「博士の異常な愛情」(63)、「2001 年宇宙の旅」(68)、「時計じかけのオレンジ」(71)で映像作家としての世界的評価を確たるものにし、その後も一作ごとに話題を振りまきながらマイペースでカルト的作品を送り出した。1999年、「アイズワイドシャット」の完成直後に70歳で急死。【ジャンル映画の求道者】ハリウッドに赤狩りの影響が残る50年代に撮影所外部より登場、ニューヨーク派の一人と目されながら、ハリウッド好みのジャンルにひとつずつ挑戦していき、いずれも類型に堕さない独自のアプローチを施すことで天才作家の評価を得た。一方で、ハリウッド資本に支えられながらもイギリスに活動拠点を据え、「フルメタル・ジャケット」(87)のヴェトナム戦争の場面も「アイズワイドシャット」のニューヨーク場面もイギリスにセットを作り、時には1カットに何日もかけ映像の隅々まで完璧さを求める完全主義に徹する。撮影技術への関心も強く、「2001年宇宙の旅」のスクリーン・プロセスやコンピュータ技術の導入、「バリー・リンドン」(71)の高精細レンズの開発、「シャイニング」(80)のステディカムの駆使など、映像美学に結び付く技術面から作家性を語られることも多い。その名声は確実に世界に広まったが、三大映画祭でもアカデミー賞でもついに作品・監督賞を得ることがなかった点は異色中の異色監督たる所以。