【演劇の映画化にも手腕を発揮した黄金期の名匠】フランスのミュルーズ(当時はドイツ領)で、スイス人の父とドイツ人の母との間に生まれた。本名はWilhelm Weiller。ローザンヌとパリで教育を受ける。アメリカのユニヴァーサル社を率いるカール・レムリが母のいとこだったことから、1920年に渡米し同社のニューヨーク・オフィスで使い走りとして働く。まもなくカリフォルニアに移り、小道具係、助監督を経て、25年に二巻ものの西部劇“The Crook Buster”を監督することになった。このとき“William Wyler”とクレジットされたが、彼は正式な改名はせず、生涯を通じて“Willi”の名前で親しまれていた。5年間はユニヴァーサルのBピクチャー部門での修行が続き、低予算西部劇を量産。30年に初のAピクチャーである「砂漠の生霊」を監督する。これはユニヴァーサルがスタジオ外で撮った初のトーキーだった。不景気時代に入り、ユニヴァーサルの経営が悪化し、35年に創業者であるレムリは会社を手放さざるを得なくなる。レムリの親戚70人が同社の賃金台帳に載るほどの身内優遇が非難された。ワイラーもその一人だったが、彼の卓抜した演出術は批判をものともしなかった。36年からはサミュエル・ゴールドウィンと契約して、リリアン・ヘルマン作の戯曲の映画化「この三人」(36)を監督。以後、おもに演劇作品の映画化に手腕を発揮し、「孔雀夫人」(36)で初めてアカデミー賞監督賞にノミネートされ、ハリウッド黄金時代の代表的な監督となる。ゴールドウィンは彼をワーナー・ブラザーズに貸し出し、ワイラーはベティ・デイヴィス主演で「黒蘭の女」(38)、「月光の女」(40)を撮る。デイヴィスとはゴールドウィン作品「偽りの花園」(41)でも組んでいる。この頃の作品の多く(ワイラーのゴールドウィン作品8本中の7本)はグレッグ・トーランドが撮影し、「嵐が丘」(39)でアカデミー賞撮影賞を受賞した。【“40テイク・ワイラー”】 戦時中の耐乏生活を描いた「ミニヴァー夫人」(42)でアカデミー賞監督賞を受賞。42年から45年にかけて陸軍航空隊に所属し、最も有名なプロパガンダ映画「メンフィス・ベル」(43)も撮っている。戦後は「我等の生涯の最良の年」(46)、「ベン・ハー」(59)でアカデミー賞監督賞を受賞したほか、66年にはアーヴィング・サルバーグ賞を受賞。完全主義者で、“40 テイク・ワイラー”と呼ばれたこともあった。またロケ撮影よりもスタジオでの撮影を好み、演劇の映画化が多いことからもわかるように、限られた場所における人間の心理、行動を細やかに、時にはドラマティックに描き、無理無駄のない優れたドラマを作り上げた。