【愛の不毛を追求したイタリアの鬼才】イタリア北部のフェラーラの生まれ。ボローニャ大学に入り、ギリシャ・ラテン語科、工学部、経済学部を卒業。学生時代から短編小説や映画批評を書き、当時の体制的なイタリア映画に対する彼の批評はたびたび検閲を受けた。そのころ16ミリで、精神病院にカメラを据えたドキュメンタリー作品などを製作。1939年、映画で生きようとローマに出る。ローマでは42年開催予定の万国博の仕事に就き、映画雑誌『チネマ』の編集部員となった。ネオレアリスモを育てる場ともなったこの雑誌からは、後に多くの監督が輩出する。しかしアントニオーニは政治的理由で解雇され、映画実験センターに入るが3カ月で退学。42年、ロベルト・ロッセリーニに認められ、ロッセリーニ監督作“Un Pilota ritorna”の脚本に参加する。さらにマルセル・カルネ監督の「悪魔が夜来る」に監督助手として参加。その後、短編ドキュメンタリーを撮るなどしたが、地下組織に入りドイツと戦った。そして、終戦を迎える。【“愛の不毛”「情事」が世界的な話題に】戦後はまず脚本家として頭角を現し、映画化はされなかったがルキノ・ヴィスコンティと2本の脚本を完成させ、ネオレアリスモの傑作と言われたジュゼッペ・デ・サンティスの「荒野の抱擁」(47)にも参加している。50年に“Cronaca di un amore”で念願の長編監督としてデビュー。56年、4人の女性たちそれぞれが自分の生き方を追求する姿を描いた「女ともだち」(56)がヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞、57 年の「さすらい」では男女の愛をめぐり、男の深い孤独と絶望を描く。「情事」(60)では、行方不明になった親友を探しているうちにその恋人の男性と関係を持ってしまう女を描き、人間の孤独や愛の不毛を鋭くえぐった作品として世界的に話題となった。カンヌ映画祭審査員特別賞受賞。「夜」(61)は離婚の危機に瀕した中年夫婦を描いた作品で、ベルリン映画祭金熊賞、「太陽はひとりぼっち」(62)では都会に生きる男女の埋めることのできない断絶感をシャープな映像で描き、これもカンヌ映画祭審査員特別賞受賞。そして「赤い砂漠」(64) は、現代人の心の空洞と断絶という得意のテーマで、ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞するなど、ヨーロッパ三大映画祭の各賞を数多く受賞する。その後、新境地を開いたと注目された「欲望」(66)をイギリスで撮り(カンヌ映画祭グランプリ)、アメリカで「砂丘」(69)、伊・仏・スペイン合作「さすらいの二人」(75)と意欲作を各国で撮る。82年には「ある女の存在証明」でアントニオーニの存在を改めて示し、さらに時間を空けてヴィム・ヴェンダースと組んで「愛のめぐりあい」(95)を撮っている。ウォン・カーウァイ、スティーヴン・ソダーバーグとの合作オムニバス「愛の神、エロス」(04)を最後に、2007年、94歳で世を去った。