【スペクタクル映画の第一人者】アメリカのマサチューセッツ州アシュフィールドの生まれ。劇作家だった父の死後、母は自宅を女学校にして家計を支え、さらに劇作家と演劇作品のエージェンシーを経営した。長兄ウィリアムも監督。1898年から1900年までアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに学ぶ。俳優、劇作家、舞台監督となり、13年にジェシー・ラスキーとともにジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーに参加。同社は数社と合併してパラマウントとなるが、デミルはパラマウントの看板監督として君臨した。28年にMGMと契約するが、同社での作品はヒットせず、31年にパラマウントに戻った。14年に白人と結婚したインディアン女性の悲劇を描く「スコオ・マン」で監督デビュー。15年の「チート」で知られるようになる。日本人古物商トリイは借金の返済ができなくなった白人女性の白い肌に、焼きごてを当てる。トリイ役の早川雪洲の演技が好評で、アメリカ人にもっともよく知られた日本人俳優となる。ただし日本では国辱的として公開されなかった。【社会の動向に敏感に反応】デミルは、観客が自分たちの得た富にふさわしい新たな生活様式を映画に求めていると悟り、金と性を主題に上流階級の豪華な私生活を描く作品を連発。ヒロインが高価な衣裳や宝石を身につけた「夫を変へる勿れ」(18)、「何故妻を換へる?」(19)といったメロドラマで、インテリア、衣装、靴、美容など最新流行のものを揃えて、観客を魅了した。こうした豪奢な描写が映画の害毒の一例として攻撃されると、今度は聖書の世界に材を取った内容の作品「十誡」(23)を監督。二部構成で一部はモーゼとラムセス、第二部は現代を舞台にした教訓劇になっている。もっとも「クレオパトラ」(34)のようにバスタブシーンではきわどい描写も織り込み、非難する人の言葉に一顧だにしなかった。以後も「キング・オブ・キングス」(27)、「クレオパトラ」(34)、「平原児」(36)、「大平原」(39)、アカデミー賞作品賞受賞の「地上最大のショウ」(52)、「十戒」(56)と大作を撮り続けた。それらはデミルならではのスケールと骨格を持っていたが、内容的にはマンネリの極致であり、それゆえハリウッドでは大家としての地位を保持続けることになった。政治的には保守派で、31年の創立に参加した監督ギルドでも、50年代の赤狩り時代には非共産主義者であるという誓約書の署名をメンバーに求める動議を支持した。49年に「37年間のすばらしいショーマンシップ」に対してアカデミー協会から特別賞を贈られている。いつも乗馬ズボンとブーツを履いて演出したことでも知られている。