【イギリスを代表する文芸映画の巨匠】イギリスのクロイドンの生まれ。父は公認会計士で、熱心なクエイカー教徒。高校を卒業して父のオフィスで働くが面白くなく、1928年、20歳のときにライム・グローヴ・スタジオにカチンコ係として入る。下働きの仕事は何でもやり、やがてモーリス・エルヴィ監督の第三助監督となる。時代はトーキーとなり、30年にゴーモン・サウンド・ニューズ社の編集室に入る。急速に編集技術を取得したリーンは注目され、会社も2回替わり、一本立ちの編集者として毎週10分のニュースを担当した。35年、念願の劇映画に転じることになり、42年までの7年間、次々とヒット作を担当していた。このニュースから劇映画の編集者を務めた12年間あまりは、正に編集を通じての演出技術が磨かれた時間だった。41年、劇作家ノエル・カワードが1本監督することになり、共同監督として指名された。それが監督第1作となる“In Which We Serve”(42)である。以降、カワードは「幸福なる種族」(44)では原作・脚本、「陽気な幽霊」(45)では原作、「逢びき」(45) では原作・脚本とリーンとの共同作業が続く。「幸福なる種族」から「マデリーン」(50)までは、アーサー・ランクのシネギルド・プロダクションで製作。これはプロデューサーのアンソニー・ハヴロック=アラン、カメラマンのロナルド・ニームと三人で創立したもので、戦後イギリス映画の新時代を築く力となった。その間の「大いなる遺産」(46)は、リーンが大好きなディケンズの小説の映画化で、複雑なストーリーを歯切れよくさばいている。次いでディケンズの「オリヴァ・ツイスト」(48)も映画化する。【傑作「アラビアのロレンス」を発表】55年、恋愛ドラマの秀作「旅情」を発表、57年、戦争を描いたヒューマニズム大作「戦場にかける橋」ではアカデミー賞の作品・監督賞など7部門で受賞、大ヒットを飛ばし、第一線の監督としてゆるぎない地位を築いた。そして、「アラビアのロレンス」(62)は、砂漠に生きた反逆児を雄大なスケールと緻密な演出で描いた傑作となり、アカデミー賞作品・監督など7部門を受賞する。65年の「ドクトル・ジバゴ」は、ソ連のボリス・パステルナーク原作小説の映画化。ロシア革命の激しい奔流の中で、医者のジバゴが二人の美しい女性の間で悩み、生きる姿を描くロマンティック大作。これもまたアカデミー賞を5部門受賞している。70年の「ライアンの娘」は、美しい人妻の不倫を通して人間の愚かさ、聡明さを描く。そして、遺作となった84年の「インドへの道」は、英国植民地インドに婚約者を訪ねて来た若い娘の神秘的な体験を描く。91年、次回作にジョセフ・コンラッドの『ノストローモ』を企画中に死去。本格的な文芸映画を格調高く製作した、イギリスを代表する巨匠だった。