【ロードムービー三部作でニュー・ジャーマン・シネマの旗手に】ドイツ、デュッセルドルフ出身。8ミリ映画や欧米のロックンロールに傾倒して少年時代を過ごす。大学入学資格試験に合格後は、外科医である父にならって医学を学ぶが、社会学に転向し、大学を転々とする。21歳の時にパリへ1年間遊学し、銅版画を学びながらシネマテークで映画漬けの日々を送る。1967年に帰国。ミュンヘン映画テレビ大学に入学し、映画製作のかたわら映画誌に批評を書き始める。この頃に、すでに映画を撮り始めていたライナー・W・ファスビンダーやハンナ・シグラと知り合う。70年、卒業制作「都市の夏/キンクスに捧ぐ」を完成させ、72年「ゴールキーパーの不安」で商業映画デビュー。「都会のアリス」(74)、「まわり道」(75)、「さすらい」(76)のロードムービー三部作で、ヴェルナー・ヘルツォーク、ファスビンダーに続くニュー・ジャーマン・シネマの旗手として脚光を浴びる。ミステリー作家パトリシア・ハイスミス原作の「アメリカの友人」(77) を観たフランシス・フォード・コッポラからハリウッドに招かれ、78年に渡米。ハードボイルド映画「ハメット」の監督に抜擢されるが、製作は長期にわたり、困難を極める。その間に「ニックス・ムービー/水上の稲妻」(80)と「ことの次第」(81)を作り上げ、映画製作の苦悩を反映させた後者はヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞。続く「パリ、テキサス」(84) と「ベルリン・天使の詩」(87)の2作が世界中で大ヒットとなり、80年代を代表する映画監督となる。【不調の90年代から復活の2000年代】しかし90年代に入ると、5カ国合作の近未来SFロードームービー大作「夢の涯てまでも」(91)と、「ベルリン」の続編「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」(93)が酷評を浴び、再びアメリカを舞台に作った「エンド・オブ・バイオレンス」(97)も不評。しかしこの作品で「パリ、テキサス」の音楽を担当したライ・クーダーと再会し、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(99)を完成。これが起死回生の大ヒットとなり、不調の90年代から復活。2000年代に入ってからはアメリカを舞台にした作品を発表している。癌に冒されたニコラス・レイの最期を撮った「ニックス・ムービー」や、小津安二郎への敬意を込めた「東京画」(85)、ミケランジェロ・アントニオーニとの共作「愛のめぐりあい」(95)など、自身が影響を受けた映画人と積極的に関わる作品も多く、映画マニア出身監督の特徴としてオマージュを捧げた作品も多岐にわたる。