【西部劇の名作を次々に手がけた巨匠】両親はアイルランド移民、11人兄弟の10番目としてメーン州ケイプエリザベスに生まれた。1895年に生誕したという説もあり、墓石には95年の方が彫られている。本名はJohn Martin Feeney。半世紀以上のキャリアで140本の映画を監督した。ポートランド高校で学び、1914年7月、映画監督、俳優をしていた12歳上の兄のフランシス(1881-1953)を頼ってハリウッドへ。俳優となり、ジャック・フォードと名乗る。D.W.グリフィス監督の「國民の創生」にもクランスマンの一人として出演した。大道具係、助監督を経て、17年に二巻ものの西部劇で監督となる。フォードの回想によると、ユニヴァーサルのボスであるカール・レムリが「ジャック・フォードに仕事をさせろ、あいつの叫び声はいい」と言ったからだという。以後、2、3日の撮影期間で1本というペースで、二、三巻ものを量産。20年に、3年間で36本を監督したユニヴァーサルを離れてフォックスに移る。23年の「俠骨カービー」からジョンの名前を使い始めた。大陸横断鉄道の建造をテーマにした「アイアン・ホース」は、製作費28万ドルで全世界での興行収入が200万ドルを超える大ヒットとなり、彼の才能が認められるようになった。28年にフォックス初のトーキー「マザー・マクリー」を監督。この映画にエキストラで出ていたジョン・ウェインとは、その後長く実り多いコンビを組むことになる。【フォード一家と西部劇】ウェインの出世作となった「駅馬車」(39)は、シャイアン族の襲撃をかわしながらひた走る駅馬車と乗客たちの多彩な人間ドラマがテンポよく描かれ、今日では西部劇の古典となっている。ウェインとは騎兵隊三部作「アパッチ砦」(48)、「黄色いリボン」(49)、「騎兵隊」(59)ほか多くの作品でも組み、彼のほかにもハリー・ケリー(フォードの無声映画25本に出演)、ウォード・ボンド、ヴィクター・マクラグレン、ベン・ジョンソンなどを好んで起用し、彼らはフォード一家と呼ばれている。46年、メリアン・C・クーパーと組んでアーゴシーを設立し、「三人の名付け親」(48)、「幌馬車」(50)、「静かなる男」(52)等を製作し、56 年に解散。西部劇だけではなく、アカデミー賞監督賞を受賞した二作「男の敵」(35)、「怒りの葡萄」(40)のように危機的状況にある男の行動と心情を綴る作品もあれば、少女スターのシャーリー・テンプル主演作「軍使」(37)、文芸映画「わが谷は緑なりき」(41)、「逃亡者」(47)、南海メロドラマ「ハリケーン」(37)、軍隊を舞台にした「長い灰色の線」(54)、「ミスタア・ロバーツ」(55)と、ヴァラエティに富んだ作品群を手がけている。