【さまざまなコメディ、人情ドラマ、そして恋愛映画の名手】アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。フランス生まれの母の名レオーナにちなんでレオと名づけられる。5歳年下の弟レイモンドも監督になり、さまざまなジャンルを手がけた。セント・ジョセフ・カトリック・スクール、ロサンゼルス高校に進学。父の強い勧めでUSCロースクールで法律を学び、刑事弁護士となるが、一度も勝訴しなかった。1918年、ユニヴァーサルに入社し、トッド・ブラウニング監督の第三助監督となる。18~19年は脚本監修、23年から28年にかけてハル・ローチ・スタジオで300本近い短編コメディの監修、監督を務め、また「ちびっ子ギャング」シリーズのギャグマンとしても働き、27年にはスタン・ローレルとオリヴァー・ハーディの極楽コンビ結成にもかかわった。30年にフォックスと契約し、33年からパラマウントの専属となる。マルクス兄弟主演の「我輩はカモである」(33)、メエ・ウエスト主演の「罪ぢゃないわよ」(34)、ハロルド・ロイド主演の「ロイドの牛乳屋」(36)と主役の強烈な個性を生かした喜劇があるかと思えば、「新婚道中記」(37)のようなスクリューボール・コメディ、「邂逅」(39)とそのリメイクである「めぐり逢い」(57)のようなラヴ・ロマンスと、さまざまなタイプの作品をこなした。【作品賞、監督賞、脚本賞を一度に獲得】「我が道を往く」(44)とその続編「聖メリーの鐘」(45)ではカトリック教会を舞台にしながら、宗教色は薄く、ヒューマニズムを程よいユーモアで味付けして、観客の共感を呼び、興行的にも大成功を収めた。「我が道を往く」はアカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞(原案部門)の三賞を同時に得た最初の作品だった。この作品のあと、独立プロデューサーとなり、46年にビング・クロズビーとレインボウ・プロを設立して、「聖メリーの鐘」、「善人サム」(48)をRKOのために製作・監督した。彼自身がベスト作という「明日は来らず」(37)は、老夫婦が家を手放すことになり、独立している子供たちの家に厄介になることにするが、大歓迎はされなかった……という、老いと家族をテーマにした人生観照映画で、オーソン・ウェルズは「石だって泣かせる映画だ」と評している。ジャン・ルノワールは「ハリウッドの映画監督で、レオ・マッケリーほど人間についてわかっている監督はいない」と述べている。