越境するマカロニ・ウェスタンの先駆者。イタリア、ローマの生まれ。父は無声映画の監督で、母は女優。ファシズム圧政下の少年時代はアメリカ映画の中で描かれる夢に憧れたという。戦後の1946年、17歳で映画界入りし、マリオ・ボンナルド監督に師事する。「自転車泥棒」や、イタリアで撮影されるハリウッド製歴史劇の助監督もこなし、「ベン・ハー」では第二班監督を務めた。60年に「ポンペイ最後の日」を降板したボンナルドのあとを引き継いで演出を担当、61年に初めて監督としてクレジットされた「ロード島の要塞」で正式に監督デビューを果たす。64年、イタリアにおける歴史劇ブームの陰りの中で、黒澤明監督「用心棒」にインスパイアされた西部劇「荒野の用心棒」を監督、これが世界的な大ヒットとなり、マカロニ・ウェスタン(欧米ではスパゲッティ・ウェスタン)・ブームの火付け役を果たした。続く「夕陽のガンマン」(65)、「続・夕陽のガンマン」(66)でマカロニ・ウェスタンの巨匠とみなされる。やがてハリウッドに招聘され、ギャング叙事詩の企画を提示するが、西部劇をとの要望に応じて68年に「ウエスタン」(英題:Once Upon a Time in the West)を発表。71年にはイタリアで、20世紀初頭のメキシコを舞台にした「夕陽のギャングたち」(英題:Once Upon a Time…the Revolution)を監督し、その後は自身のプロダクションで数本の製作を務める。83年、十数年来の企画である「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」をハリウッドで手がけ、カンヌ映画祭でイタリア映画批評家協会賞、キネマ旬報ベスト・テン1位に評価された。89年、60歳で死去。正式な監督作は7本で、初期のイーストウッド主演“ドル箱三部作”と、後期の“ワンス・アポン・ア・タイム”三部作がともに代表作とみなされ、“イタリアの寡作な巨匠”の愛称も持つ。ヨーロッパで製作される擬似西部劇は「荒野の用心棒」以前から存在したが、この世界的成功でイタリア製西部劇が注目され、劇画的な残虐描写や個人の欲望に焦点を当てる新境地を広く知らしめた。極端なクローズアップとロングショットの併用、時間感覚の拡大、時制を跳び越える構成などの特徴的な技法、バロック的・オペラ的と呼ばれる作風も高く評価されている。幼少期にアメリカ映画の中にふくらませた夢は、終戦直後に進駐軍の実態を目の当たりにしてくずれ去ったが、「ウエスタン」で実際にアメリカ(合作)映画の監督となり、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でアメリカ史を追想するなど、終生をかけて自身の中のアメリカを探し求め、映像に刻み込んだ異色のイタリア人作家でもあった。