【映画マニアからアメリカ映画界の寵児へ】アメリカ南部テネシー州の田舎町ノックスヴィル出身。母コニーは16歳でタランティーノを生み、その後、親子はロサンゼルス郊外へ引っ越す。少年時代のタランティーノは映画ファンの母に連れられて映画館へ通いつめ、コミックと娯楽雑誌を読みあさって成長する。IQテストでは150以上を記録するが学業に興味が持てず、16歳で高校を中退。ポルノ映画館でアルバイトをしながら、演技学校で演技を6年間学ぶ。21歳の頃、客として通っていたマンハッタン・ビーチ最大手のレンタル・ビデオ店、ビデオ・アーカイヴスの店員に。映画マニアの先輩店員ロジャー・エイヴァリーや客たちと映画について語りながら、あらゆるジャンル、国籍の映画を観まくる。この時期に未完成の処女作“My Best Friend.s Birthday”を作り、エイヴァリーと脚本を書き始めるなど、手探りでプロへの道を模索する。この頃、「トゥルー・ロマンス」の元となる脚本を書き上げ、監督デビューを狙うもなかなか実現せず、その間に「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「レザボア・ドッグス」の脚本を執筆する。1991年、新人プロデューサー、ローレンス・ベンダーと組んで「レザボア・ドッグス」を自主製作しようとしていた矢先、脚本に興味をもった俳優ハーヴェイ・カイテルから連絡を受け、その後押しで映画を完成にこぎつける。同作は92年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映されて反響を呼び、サンダンス映画祭では受賞は逃したもののミラマックス配給で全米公開され、一気に注目を浴びた。翌93年、トニー・スコット監督で「トゥルー・ロマンス」が映画化されて大ヒット。「ナチュラル・ボーン・キラーズ」はオリヴァー・ストーンが監督する。94年、自身の監督第2作「パルプ・フィクション」がカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、デビューからわずか数年で映画界の寵児となる。【独自の人脈を築き、海外映画も紹介】ゴダールから和製ドラゴンまで幅広いジャンルをフォローする熱烈な映画マニアであり、影響を受けた映画の引用、パロディ、オマージュを自作に臆面もなく取り入れるのが特徴で、その極端な例が「キル・ビル」(03)。カイテルに見い出された自身の経験からか若手の発掘にも熱心で、レブ・ブラドックの「フェティッシュ」(96)、イーライ・ロスの「ホステル」シリーズの製作総指揮を手がけ、同時期にデビューしたロバート・ロドリゲスとは互いの作品に参加し合うなど、独自の人脈を築く。ゴダールの作品にちなんで命名した製作会社A Band Apartでは、ウォン・カーウァイの「恋する惑星」や北野武の「ソナチネ」、タイ映画「トム・ヤム・クン!」など自身の嗜好に合った映画を買い付けてアメリカ国内で配給し、海外映画のアメリカ普及にも熱意を注ぐ。