東京都八王子市の生まれ。父は歌手の井沢八郎(2007年死去)だったが、1983年に渋谷でスカウトされて芸能界入りしてからも、本人の意向によりしばらくは井沢の娘であることを公表せずに芸能活動を行なった。ハウス食品のインスタントラーメンのCMで“お湯をかける少女”のキャッチコピーとともに注目されたのを契機に、翌84年の石井聰亙監督「逆噴射家族」で映画デビュー。その挿入歌の『野生時代』で歌手デビューも果たし、大型アイドルとして売り出された。85年の相米慎二監督「台風クラブ」では、台風の接近とともにやり場のない苛立ちや焦燥感にとらわれる中学生たちのひとりに扮し、絶賛を浴びる。以降も栗山富夫監督「祝辞」85、中田新一監督「本場ぢょしこうマニュアル・初恋微熱篇」87などで女優として成長を遂げ、89年には「台風クラブ」を見たジム・ジャームッシュ監督に請われて、永瀬正敏とともにアメリカ映画「ミステリー・トレイン」に出演。それ以前からも海外作品への出演を強く望んでいた工藤だったが、カンヌ国際映画祭にも出品された本作で一躍海外からの注目も集めた。91年には今井正監督の遺作「戦争と青春」に、現代の女子高生と戦火を生き抜いた叔母の青春時代の一人二役で主演。報知映画賞とブルーリボン賞の主演女優賞を受賞した。その後は本格的に海外進出を模索し、95年製作のアメリカ映画「ピクチャー・ブライド」(日本公開は96年)でハリウッド進出。以降はアメリカを拠点にした女優活動となり、「ヒマラヤ杉に降る雪」99、「SAYURI」05、「ラッシュアワー3」07などハリウッドの話題作を中心に出演を重ねた。その間の95年に「ピクチャー・ブライド」の撮影中に知り合ったハワイ在住の会社員と結婚したが、3年後に離婚。2005年頃からは日本に戻ってくることも多くなって、「L change the WorLd」08などの日本映画や、舞台、情報番組出演なども精力的にこなした。現在は富士山麓に居を移し、日本を活動拠点としている。