【「男たちの挽歌」のアクション美学で香港ノワールを確立】中国、広東省広州に生まれ、5歳の頃、共産党支配化の本土から香港へ一家で移住。学者だった父親は職に就けず、貧困の中で病死する。一家はスラム街に居を構え、暴力や犯罪を間近に見て成長する一方、映画館へ通いつめ映画に夢中になる。17歳で学校を中退。若者向けのカルチャー雑誌『中国学生週報』編集に参加し、仲間たちと実験映画を撮りはじめる。キャセイ・フィルムを足がかりに1971年、ショウ・ブラザースに入社。チャン・チェー監督の助監督につき経験を積む。その後独立し、73年にデビュー作「カラテ愚連隊」を監督するが、なかなか公開にこぎつけられず、ゴールデン・ハーベストに売却。それが縁で同社の専属監督となり、コメディ、広東オペラ、武俠ものなどを手がけるが次第に会社との間に軋轢を生じ、新興のシネマシティに移籍。しかし台湾支社へ出向させられ、この時期に撮った作品は興行的に失敗し、苦しい時期を過ごす。転機が訪れたのは86年、かねてより親交のあったツイ・ハークと作った「男たちの挽歌」が、香港で空前の大ヒットとなる。この作品はシリーズ化され、俳優チョウ・ユンファを一躍人気スターにするとともにウーの代表作となる。【90年代以降はハリウッドを拠点に】92年の「ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌」を最後に活動の場をハリウッドへ移し、「ハード・ターゲット」(93)、「ブロークン・アロー」(96)を経て3作目「フェイス/オフ」(97)でのアクション演出で注目を浴びる。ちょうどこの頃、チョウ・ユンファのハリウッド・デビュー作「リプレイスメント・キラー」(98)や、カーク・ウォン監督「ビッグ・ヒット」(98)の製作総指揮を手がけるなど、香港映画人のハリウッド進出にも尽力する。二丁拳銃を使った銃撃戦、銃弾の中を舞う白いハト、スローモーションで捉える決闘シーンなど、特にアクション表現において独特の個性を発揮して熱狂的なファンを生む。そのひとり、トム・クルーズのたっての指名で監督に選ばれ、「M:I-2」(00)を発表、知名度を世界的なものとする。2008年、三国志を題材にした大作「レッドクリフ」で16年ぶりに中国映画界に復帰。アジア4カ国(香・日・韓・台)の出資を受け、中国映画最高の製作費が評判となった。