【日活アクションから幻想的世界まで“清純美学”を展開】東京都生まれ。元NHKの人気アナウンサー・鈴木健二は実弟。1943年12月、青森の弘前高校在学中に学徒出陣で応召。復員後の48年に同高を卒業し東京大学を志望するが不合格で、演劇好きの知人に誘われて当時できたばかりの鎌倉アカデミア映画科に入る。同年9月、別の友人の誘いで松竹の助監督試験を受け合格。渋谷実、佐々木康、中村登らについたのち、メロドラマ専門の岩間鶴夫の専属助監督となって、さまざまな影響を受けた。54年、製作を再開した日活に移籍し、主に野口博志に師事する。56年、本名の鈴木清太郎名義で、浦山桐郎脚本による歌謡映画「港の乾杯・勝利をわが手に」で監督デビュー。添え物作品専門として最初は影が薄かったが、58年の「暗黒街の美女」から鈴木清順と改名し、翌59年の赤木圭一郎のデビュー作「素っ裸の年令」辺りから、そのバタ臭い演出が認められるようになった。【良き製作者、良き美術監督に支えられて】以後も、当時の日活の主流だった無国籍風アクションを中心に、「探偵事務所23・くたばれ悪党ども」(63)ではハードボイルドタッチを、「野獣の青春」(63)では優れた色彩感覚と映像リズムを獲得。また、ベテラン美術監督・木村威夫との出会いもあり、美術だけでなく脚本面からの協力も得て、独特の映像美学で観客を魅了する清順カラーが形成されていった。以降、清順はほとんどの作品を木村美術で撮ることとなる。さらに、ミュージカル風アクション「東京流れ者」(66)や、昭和前期の硬派中学生の青春像を描いた秀作「けんかえれじい」(66)で、一般の映画ファン層の熱い支持を集めるようになるが、宍戸錠主演のハードボイルド「殺しの烙印」(67)を発表した翌68年、事態が一変する。当時の日活社長・堀久作が「わからん映画ばかり作られては困る」と発言して清順を解雇。裁判沙汰にまで発展し、“鈴木清順問題共闘会議”も組織されて抗議活動が行われたが、結局、70年代の清順は『木乃伊の恋』など数本のテレビ映画と多数のCMを演出したのみで、77年に松竹で撮った「悲愁物語」が唯一の映画という“幻の監督”となってしまった。しかし80年、荒戸源次郎のプロデュースで「ツィゴイネルワイゼン」を発表。清順独特の映像美が幻想的な物語とともに花開き、各映画賞を総なめにして見事な復活を遂げた。以後も「陽炎座」(81)、「夢二」(91)、「オペレッタ狸御殿」(05)など寡作ながらも意欲的な作品を送り出す傍ら、不遇時代に特異な風貌とキャラクターを買われて始めた俳優業でも、コンスタントに作品を重ねている。2017年2月13日、慢性閉塞性肺疾患のため逝去。享年93歳。