【半世紀にわたって論議を呼ぶ作品を作り続ける】スペインのアラゴン地方カランダ生まれ。息子フアン・ルイス・ブニュエルも監督となり、「赤いブーツの女」などを手がけている。イエズス教会のミッション・スクールに学び、1924年にマドリッド大学を卒業。サルヴァドール・ダリ、詩人ロルカらと同じ下宿で暮らし、親交を深めていった。フランスに移り、26年から27年にかけてジャン・エプスタンの「アッシャー家の末裔」の助監督を務める。28年、ダリと共同執筆した脚本に基づく短編「アンダルシアの犬」で衝撃的なデビューを果たす。 宗教やエスタブリッシュメントを皮肉った「黄金時代」(30)やドキュメンタリー「糧なき土地」(32)を撮り、33~35年はマドリッドで商業映画の製作と監督に従事した。39年から55年はアメリカとメキシコに滞在。ニューヨークの近代美術館で働き、44年にはワーナー・ブラザース映画のスペイン語版の製作をした。46年にメキシコに移り、「忘れられた人々」(50)、「幻影は市電に乗って旅をする」(54)などの低予算映画を監督。フランコ将軍のスペイン映画振興策に伴って、61年にスペインに戻って「ビリディアナ」(61)を撮り、カンヌ映画祭でグランプリを受賞するが、宗教を冒涜しているという理由でスペインでは上映禁止になった。【宗教とブルジョワを風刺】60年代からはフランスを中心にプロデューサーのセルジュ・シルベルマン、脚本家のジャン=クロード・キャリエールと組んで、「昼顔」(67)、「自由の幻想」(74)など、ブルジョワジーを風刺した作品を監督。シュールレアリスムの反社会的作品でスタートを切り、30~50年代は同じスペイン語圏のメキシコで困窮者の生活を描くかと思えば、『ロビンソン・クルーソー』や『嵐が丘』といったイギリスの古典小説を映画化したり、ニューヨークの美術館やハリウッドでも活動を展開。60年代に入って母国に戻り、さらにフランスでブルジョワジーを風刺する作品を連続して撮る。彼ほど行動範囲が広く、多岐にわたっている映画人は他にいない。ルキノ・ヴィスコンティは彼について「今日、余りに多くの監督が自分のことを注目に値すると思いこんでいるようだが、本当に新しいこと、興味を引くことのできるのは唯一人、ブニュエルだけだ」とコメントしている。またヒッチコックも「世界でもっとも偉大な監督」と称賛。自伝『映画、わが自由の幻想』を83年に発表している。