【批評精神と実験性に富むハリウッドの非ハリウッド主義者】アメリカ、ミズーリ州カンザス・シティのアイルランド系イギリス人のもとに生まれる。父親は保険セールスマンでギャンブラー。第二次世界大戦で兵役を務めたのち、一度はハリウッド入りの夢に挫折したが地元のCM 製作で研鑽を積み、ほぼ自主製作のかたちで監督デビューを果たす。アカデミー賞監督賞には5度ノミネートされるが受賞には至らず、2006年に名誉賞を授与された8カ月後、81歳で病死。1957年の“The Delinquents”と「ジェイムス・ディーン物語」でハリウッド入りしてからは、テレビ番組に携わって雌伏の時を過ごした。実質的なメジャー・デビューは60年代末で、70年の諷刺コメディ「M★A★S★H」がカンヌ映画祭パルム・ドール受賞とともに大ヒットすると、45歳にして新世代監督に肩を並べる新進監督と目された。70年代は大手各社で「ギャンブラー」(71)、「ロング・グッドバイ」(73)、「ナッシュビル」(75) など従来の様式からはみ出たジャンル映画を多く発表し、76年の「ビッグ・アメリカン」はベルリン映画祭で金熊賞を受賞。しかし80年の大作として手がけた「ポパイ」が失敗すると、メジャー各社とアルトマンの双方は提携製作に無理を感じ、独立資本による小さな映画づくりやテレビ・ヨーロッパ資本など非ハリウッド作品に移行する。やがてミニ・メジャーの躍進によってハリウッドでもふたたび活動の場が得られ、92年の「ザ・プレイヤー」はカンヌ映画祭で監督賞を受賞。「ショート・カッツ」(94)、「ゴスフォード・パーク」(01)といった円熟の群像劇で俳優たちから尊敬の念を集める巨匠となった。【反“慣例”、反“体制”】ジョン・カサヴェテスはアルトマンの特色を“アンチ・コンヴェンショナル、アンチ・エスタブリッシュメント”と呼んでいる。70年代の作品は多くがハリウッド的なジャンル映画だったが、その中でブラックユーモアに包んだメッセージを送り、あるいは実験的な試みを企てるなど、旧来の様式性を攻撃する面もあった。こうした性向が“反ハリウッド的”とみなされ、「ポパイ」直後の一種の追放劇に至る。しかしながら、群像ドラマでいくつもの人生を重ね合わせる独自の作劇術は「ナッシュビル」の時点で完成も評価もされており、同系の「ザ・プレイヤー」で華々しく復帰を飾るや、依然と硬派の姿勢を崩さぬまま第一線を駆け抜けた点を鑑みれば、鬼才にして時代に先行した作家でもあったと言えよう。