【深い精神性を探求した“ロシア”の名匠】モスクワ生まれ。父はウクライナの詩人として有名なアルセニー・タルコフスキー。学生時代に絵画、音楽を学ぶが、1954年に全ソ国立映画大学に入学。ミハエル・ロンムに師事し、後に同じく監督となるアンドレイ・コンチャロフスキーとも親交を結ぶ。卒業製作の短編「ローラーとバイオリン」(61)がニューヨーク国際学生映画コンクールで第1位に選ばれて注目され、ウラジミール・ボゴモーロフのベストセラー小説を原作とした「僕の村は戦場だった」(62)で長編デビュー。戦争に巻き込まれた少年の悲劇が、叙情的な回想シーンと戦場の激しい描写とのコントラストの中に鮮やかに描かれ、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。早くも国際的に注目されるようになった。続く「アンドレイ・ルブリョフ」はロシアの伝説的なイコン作家の生涯を描いた3時間に及ぶ歴史大作で、シナリオ執筆に2年、予算不足や検閲に悩まされながらも67年に完成。国内では“反愛国的”とされて5年間上映されなかったが、69年のカンヌ国際映画祭で上映され、国際映画批評家連盟賞を受賞した。72年にはポーランドのSF作家スタニスラフ・レムの原作を映画化した「惑星ソラリス」、自伝的な作品「鏡」(75)、SF映画「ストーカー」(79)と製作を続け、“水”や“火”といった自然現象、“夢”といったモチーフが独自の映像イメージを作り出す詩的スタイルを築き上げ、海外でますます高い評価を受けていった。その一方で、芸術家の自立性と表現の自由を求める姿勢はソヴィエトの検閲システムと衝突を繰り返し、国内での創作活動を断念せざるを得ない状況になっていく。【故郷に戻ることなく死去】83年にはイタリアで「ノスタルジア」を製作。外国に旅するロシア人の癒しがたい故郷へのノスタルジアを描いた。ロンドンでオペラの演出をした後、84年にソヴィエト当局からの帰国要請をはねつけて事実上の亡命を宣言。スウェーデンで製作した「サクリファイス」(86)は、地球最後の日をテーマに人類救済の祈りを詩的な映像に込めた深遠な作品で、同年のカンヌ国際映画祭で上映され審査員特別大賞、国際映画批評家連盟賞など史上初の4賞同時受賞を果たす。だが、タルコフスキーは撮影時に末期の胃ガンであることが判明して完成後に病床に伏す。海外での高い評価にも関わらず国内ではずっと不遇であったのが、晩年になって名誉回復の声明も出されていた矢先、故郷に戻ることもなく12月28日、パリで54歳で亡くなった。日本への関心は高く、「惑星ソラリス」の未来都市のイメージのために来日し、首都高速道路の光景を撮影している。『日記』『映像のポエジア』などの遺された著作からも、古くから俳句や日本映画に深い関心を抱き、黒澤明や溝口健二に傾倒していたことが伺える。実際に黒澤明とは「デルス・ウザーラ」の撮影で黒澤がソ連に行った際に歓待し、その後も長く親交を結んだ。