【反体制左派から生まれ出たイタリア映画復興の牽引者】イタリア、最北東部トレンティノ=アルト・アディジェ州のブルニコで生まれたが、実情はローマ育ち。15歳から映画と水球に熱中し、高校卒業後に8ミリの短編を撮り始める。1976年に自作自演の長編「僕は自立人間」を発表。これが16ミリにブローアップされて一般公開に至り、若者の圧倒的な支持を得た。続く78年の「青春のくずや~おはらい」(撮影は16ミリ)でも友人を役者に起用、不安とフラストレーションを抱えた同時代の無為な青春を描き、ポスト反体制世代の共感を集めて大ヒットとなった。81年には35ミリ撮影で、映画製作に取り組む監督の苦悩を自身の主演で描いた「監督ミケーレの黄金の夢」がヴェネチア映画祭の特別金獅子賞を受賞。次作の「僕のビアンカ」(83)以降、反体制運動に揺れた同時代社会を背景に、自作自演により左翼的主張をコメディ・スタイルで表現するドラマ作りが続き、85年の「ジュリオの当惑」ではベルリン映画祭銀熊賞を受賞。一方、国内ではもっぱら俳優監督のスターとして活躍していた90年代に入ると実名の映画日記スタイルに転じ、癌との闘病を経て撮った「親愛なる日記」(94)がカンヌ映画祭の監督賞を受賞。50年代ふうミュージカルに取り組む日記映画「ナンニ・モレッティのエイプリル」(98)ののち、一転してシリアスドラマに取り組んだ「息子の部屋」(01)でカンヌのパルムドールを獲得、世界的巨匠の風格を備える。その後は短編作品を除き沈黙を保ったが、2006年に「カイマン」(日本未公開)を発表。現イタリア大統領の人生を映画化するプロデューサーの姿を描き、本国では総選挙直前に公開されて大反響を呼んだ。【イタリアのウディ・アレンと呼ばれて】戦後イタリア映画の凋落期にあたる70年代半ばに登場、同時期には若い戦後世代による“新しい喜劇”群が台頭し、その一翼で名を馳せた。彼らの作品は多くが自作自演で、国際的スターの不在ゆえ国内人気に留まっていたが、90年代に入ると各国で作家特集が組まれはじめ、同趣向のロベルト・ベニーニやジュゼッペ・トルナトーレに並び、イタリア映画の復興を牽引する作家のひとりとなった。その作風は反体制に揺れた70年代イタリア社会の情勢と切り離しがたく、左派の立場から自主製作に取り組んだ出発点は、ネオリアリスモの流れを汲む。また80年代までの長編作は「ジュリオの当惑」を除き、すべて自演のミケーレという人物を主人公に据え、自己を仮託して左派の主張を織り込み、あるいは映画づくりの奮闘を描いてきた。「親愛なる日記」以後はよりパーソナルな意匠が強まり、こうした自伝的姿勢はフェデリコ・フェリーニの衣鉢を継ぐものだったが、神経症的な饒舌さや自己諧謔性を特徴としたことから、“イタリアのウディ・アレン”と呼ばれることになった。名声を決定づけた「息子の部屋」では客観ドラマに方向転換を図ったかに見えたが、精神分析医を演ずることがテーマのひとつにあったと自身は語り、ここで一度、主人公および自作の客観視を試みたと考えられよう。映画監督以外では、若手のために製作資金集めと映画賞を設置、さらに劇場経営にと活動を広げている。