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ジョセフ・フォン・スタンバーグ

  • Josef von Sternberg
  • 監督/脚本/原作/撮影
本名
出身地 オーストリア、ウィーン
生年月日 1894年5月29日
没年月日 1969年12月22日

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略歴

【犯罪劇や悲恋ドラマの名作を放つ】オーストリアのウィーン生まれ。第一次大戦後、アメリカに移住する。ニューヨークのクィーンズにあるジャメイカ高校を出て、ウィーンに戻った。1911年にニュージャージー州フォートリーにあったワールド・フィルム社でフィルム修繕係となる。17年に陸軍通信隊で訓練フィルムの製作にあたり、18年に脚本家、監督の助手となり、24年に俳優エリオット・デクスターの助言で名前に貴族の称号である“von”をつける。25年にエキストラたちに資金を募って「救ひを求むる人々」を監督。MGMと8本契約を結ぶが、2本の企画がつぶれたあとで、契約は消滅した。翌26年にはチャップリンの依頼により“The Sea Gull”を監督。チャップリンの共演者だったエドナ・パーヴィアンスのカムバック作品として企画され、チャップリン自身も一部の追加シーンを演出したが、公開はされなかった。【ギャングスター映画ブームを先取り】26年から10年間パラマウントに在籍し、ジョージ・バンクロフト主演で、ギャングスター映画三部作「暗黒街」(27)、「非常線」(28)、「サンダーボルト」(29)を撮り、30年代に流行するギャングスター映画の先鞭をつける。30年にパラマウントとドイツのウーファの提携作品「嘆きの天使」を監督。ヒロインに抜擢したマレーネ・ディートリッヒとは以後公私共に親密な関係となり、妻リザ・ロイスから離婚訴訟を起こされたりした。ディートリッヒを最大限美しく見えるように撮ることを心がけながら、「モロッコ」(30)、「間諜X27」(31)、「上海特急」(32)、「ブロンド・ヴィナス」(33)、「恋のページェント」(34)、「西班牙狂想曲」(35)と次々に監督。パラマウントとはもめることが多く、35年に製作担当ヘッドだったエルンスト・ルビッチに首を切られることになる。ディートリッヒと別れ、パラマウントと決別した後は精彩を欠き、37年にはイギリスで“I, Claudius”の製作に取り掛かるが、途中で打ち切られてしまい、次第に過去の人となっていき、戦時中はプロパガンダ短編を製作。キング・ヴィダー監督作「白昼の決闘」(48)ではアドバイザーを務め、47年にはUSCで監督術について講義した。53年に日本で撮った「アナタハン」が遺作となった。

キネマ旬報の記事

1995年5月下旬号

ハリウッド・カップルズ:第24回 ディートリッヒ&スタンバーグ

1995年5月上旬号

ハリウッド・カップルズ:第24回 ディートリッヒ&スタンバーグ