【台湾映画界のニュー・ウェーブからアジアの名匠へ】中国、広東省梅県で生まれ、1歳の時に家族とともに台湾へ移り、南部の鳳山で少年時代を過ごす。病床にあった父を12歳で亡くし、その6年後、母も喉頭癌で失う。高校時代は母に代わって祖母と弟2人の面倒を見て家事をこなし、この頃までの経験は自作の中でたびたび描かれる。高校卒業後に兵役に就き、この時期に観た映画によって進路を定め、除隊後の1969年、国立芸術学院映画・演劇科に入学。72年に卒業し、セールスマンをしばらくした後、リー・ジン監督「心有千千結」(73)のスクリプターとして映画界に入る。チェン・クンホウ監督作をはじめ多くの映画に助監督、脚本家として携わり、80年「ステキな彼女」で監督デビュー。人気歌手ケニー・ビー主演のアイドル映画3本を手がけた後、初めて自分でキャスティングが許された若手監督3人によるオムニバス映画「坊やの人形」(83)を発表する。同年の「風櫃の少年」とその翌年の「冬冬の夏休み」で、ナント三大陸映画祭グランプリを2年連続で受賞。続く「童年往事 時の流れ」(85)がベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を獲得し、エドワード・ヤンとともに台湾ニュー・ウェーブの代表的存在となる。【世界三大映画祭のすべてを制覇】少年時代を扱った四部作(「風櫃の少年」から「恋恋風塵」)の後、当時の台湾で触れるのはタブーとされていた二・二八事件を扱った「悲情城市」(89)を監督。同作はヴェネチア国際映画祭でグランプリに輝き、93年には「悲情城市」で描かれる以前の台湾を背景とした「戯夢人生」で、カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。これによって世界三大映画祭のすべてを制覇し、若くして名匠と呼ばれるに充分の地位を築く。初期のノスタルジックな作品群から台湾現代史を静謐に見つめた中期、近年は詩的な映像で都市の不安や孤独を描き出したものが多く、ベテランとなった現在も自己模倣を避け、スタイルを固定させず旺盛に作品を発表する。日本がらみの仕事も多く、「好男好女」(95)、「憂鬱な楽園」(96)、「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(98)の3作は松竹からの出資を得て監督。小津安二郎生誕100 年を記念して製作された「珈琲時光」(03)では、現代の東京を舞台に小津の世界を甦らせることに挑戦し、「ミレニアム・マンボ」(01)、「百年恋歌」(05)にも日本が登場している。