【あらゆるタブーに挑戦したイタリアの鬼才】イタリア、ボローニャの生まれ。職業軍人の父の関係で、パルマ、クレモナなど北イタリアを転々とする。1939年ボローニャ大学に入るが、このころルネ・クレール、チャップリン、溝口健二作品などを見て映画への想いを募らせる。42年には初の詩集を出版、彼の名はまず詩人として注目された。45年、パルチザンに参加していた3歳年下の弟が、内部抗争の犠牲となり殺害された。一方、教師生活をしながら小説を発表。ネオレアリスモの小説家モラヴィアの流れをくむ作家として話題となる。47年に共産党に入党するが、49年に未成年者堕落罪で告発されたため、除名される。50年ローマに出る。当初は苦しい生活が続くが、精力的な文筆活動によって文壇に認められるとともに、その才能を映画界からも注目されるようになり、フェデリコ・フェリーニの「カビリアの夜」(57)、マウロ・ボロニーニの「穢れなき抱擁」(60)の脚本に協力する。61年「アッカトーネ」で監督デビュー。粗野な男のむき出しの生と死が直截に表現されたこの作品は高く評価された。小説から映画へ、パゾリーニは自身の表現方法を変えたのである。64年の「奇跡の丘」は“マタイ伝”の映画化で、行動する革命家としてのキリスト像は全世界に強烈なインパクトを与えた。67年の「アポロンの地獄」は、著名なギリシャ悲劇を現代にも通じる普遍的な象徴にまで高め、重厚なドラマとして再構築した。これでパゾリーニの名は異端児としてばかりでなく、映像作家として世界に認識されたのである。【エロスと古典作品の映画化】有産階級の家にまぎれこんだ青年によって家族関係が崩壊する姿を描いた「テオレマ」(68)。そして、オペラ歌手マリア・カラスを主役に招いて、これまたギリシャ悲劇に材をとった「王女メディア」(69)を、パゾリーニならではの巧みな映像世界で描いた。以降、エロスの讃歌とともに特異な作風を見せるようになり、「デカメロン」(71)、「カンタベリー物語」(72)、「アラビアンナイト」(74)など、古典作品の映像化に意欲的に取り組んだ。75年の「ソドムの市」は、ムッソリーニの時代を舞台にした、美少年・美少女相手にレイプ、スカトロ、ゲイ、ソドミーなどグロテスクな映像が破天荒に展開する反体制映画である。パゾリーニは同性愛者であることを公言していたが、75年11月2日、ローマの南20キロの海辺の近くの林の中で、撲殺死体として発見された。犯人は17歳の少年で正当防衛を主張、同性愛を迫られての犯行と自供。様々な疑問を残しながら、79年、少年に犯意がなかったことが認められた。