【時代の空気を敏感に感じ取った“ピンクの巨匠”】宮城県遠田郡の生まれ。本名・伊藤孝。高校2年の時に停学処分を受け、そのまま友人とともに家出して上京。菓子職人、新聞配達、暴力団構成員などを経てテレビ映画の世界に足を踏み入れた。この時から若松孝二と名乗り助監督などを務めるが、監督たちと揉めてテレビを離れ、1963年、国映製作のピンク映画「甘い罠」で監督デビューする。過激な性描写から大ヒットとなり、この年にもう2本、翌64年と65年はいずれも9本を監督。低迷する邦画大手五社にゲリラ的に挑んだピンク映画の興隆期と重なり、過激な作家・若松の名はたちまち知れ渡った。さらに映画界を揺るがす“事件”が起きたのは65年、ベルリン映画祭に出品され良識派の映画人から「国辱だ」との批判を浴びた「壁の中の秘事」だった。たまたま試写を見たドイツのバイヤーが同作を買い付け、映連の正式エントリー作品を差し置いて映画祭に出品したことから起きた騒動だったが、以来、若松は“ピンクの巨匠”として内外から注目される存在となった。この騒動を機に若松プロダクションを設立。大和屋竺、足立正生、荒井晴彦らの才能が集い、若松は自らプロデューサーとして大和屋、足立の監督デビューにも尽力した。60年代末から70年代にかけての政治動乱の時代にはその機運を敏に感じ取り、赤軍派のよど号ハイジャック事件に取材した「性賊(セックスジャック)」(70)、同じく三島事件の「性輪廻(セクラ・マグラ)・死にたい女」(70)、71年夏には足立とともに立ち寄ったパレスチナで「赤軍―PFLP・世界戦争宣言」を撮り、ATGとの提携で72年に「天使の恍惚」を監督する。【日本映画界の異能の存在へ】ここを頂点として若松プロは次第に活力を失っていくが、それでも多作ぶりには変わりなく、82年に内田裕也主演の「水のないプール」で本格的に一般映画に進出するまで、大手メジャーの枠組みで撮られた成人映画も含め、若松が監督したピンク映画はゆうに80本を超える。その間の76年には大島渚の問題作「愛のコリーダ」のプロデューサーも務め、「水のないプール」の成功以降はピンクの巨匠から日本映画界の異能へと軽やかにシフトチェンジ。硬軟巧みに使い分ける演出巧者、かつピンク時代と変わらぬ機敏な企画力を持つ監督として実績を積み重ねていった。90年代後半からはさすがの旺盛な企画力も衰えたかに見えたが、2008年には、浅からぬ因縁だった70年代左翼運動を総括する大作「実録・連合赤軍/あさま山荘への道程」を執念で実現させ、内外で高い評価を受け、ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞、2010年の「キャタピラー」は同映画祭で最優秀女優賞(寺島しのぶ)を受賞した。2012年10月12日交通事故に遭い、17日に死去。遺作は中上健次原作の「千年の愉楽」。