【神とサタン、人間の犠牲と受難を描く】デンマークのコペンハーゲンで、農場主イエンス・クリスチャン・トルプと、メイドとして雇われていたスウェーデン人ジョセフィンとの間に生まれた。2年間は孤児院で暮らし、植字工カール・テオドール・ドライヤーに引き取られた。養父母は厳格なルター派の信者で、幼児期はあまり幸せではなかったという。だが、勉強ができたので、16歳で家を離れて高等教育を受けた。18歳になった時、母が堕胎を試み、彼の出産直後に死亡したということを知り、ショックを受ける。彼の映画に、犠牲になった女性が多く登場するのは、実母の悲劇が影響していると言われ、また養父母の教えも彼の映画に大きな影響を与えた。1909年から13年までジャーナリストとして働き、その後、無声映画の字幕カードを書く仕事を始め、脚本も手がけるようになる。最初に映画として結実したのは12年のラスムス・オテセン監督による“Bryggerens Datter”で、19年のメロドラマ「裁判長」で監督デビューを果たす。21年には、キリスト時代のエルサレム、16世紀の宗教裁判、フランス革命、20世紀初頭のフィンランドと、四つの時代にサタンが忽然と現れて、人間を誘惑し堕落させようとするという「サタンの書の数ページ」を監督。完成後1 年半してやっとノルウェイのオスロで封切られたが、映画のペースが緩慢だと感じた上映者が短縮し、さらに回転速度を速めて上映。また、この映画のキリスト描写は神を冒.していると攻撃されたりもした。【海外での創作活動で高く評価】以後は、母国より外国で映画を撮ることが多かった。21年、ドイツに移り、室内劇映画の影響を受け、コペンハーゲンに戻って、暴君の父親が妻の家出をきっかけに改心するという「あるじ」(25)を監督。この作品で国際的に知られるようになり、日本で公開された彼の最初の作品ともなった。28年の「裁かるゝジャンヌ」で知られるようになり、独立プロで製作した「吸血鬼」(31)でその名声はピークに達するものの興行的には失敗に終わる。32年に映画界から引退してデンマークでジャーナリストに戻るが、43年には「怒りの日」を監督。国立映画センターの依頼で短編映画を製作することで生活費を稼いでいたが、52年に映画館ダウマー劇場の経営権を与えられて、短編映画を作る必要がなくなった。55年の「奇跡」でヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞。64年から、死亡する68年まで、キリストの生涯を描く作品の企画を暖め、ヘブライ語まで勉強するも、厳しい経済状況とリアリズム追求のために映画は幻のものとなった。88年には、ドライヤーの書いた脚本をベースに、ラース・フォン・トリアーの監督で「メディア」が公開されている。