【90年代にブームを引き起こした異才】イギリス、ウェールズ州ニューポート出身。幼年期に両親の地元であるロンドンへ移り住み、少年時代は画家を志す。ウォルサムストン美術大学で絵画を学び、22歳でロンドンのローズ・ギャラリーで個展を開く。1965年に中央情報局へ入社し、多くのドキュメンタリーを手がける。翌年、5分間の実験映画“Train”を完成。数字やアルファベットを組み込んだ実験的な短編映画を自主製作するかたわら、絵を描き、小説や絵本を執筆する。1978年、“A Walk Through H”でシカゴ映画祭シルヴァー・ヒューゴー賞を受賞。80年に“The Falls”でBFI(ブリティッシュ・フィルム・インスティテュート)最優秀作品賞を獲得。BFIとチャンネル4より資金提供を受け、初の長編劇映画「英国式庭園殺人事件」(82)を発表。続いて「ZOO」(85)、「建築家の腹」(87)と意欲作を連発し、「数に溺れて」(88)でカンヌ国際映画祭の芸術貢献賞を受賞。翌89年の「コックと泥棒、その妻と愛人」が映画界に強烈な衝撃を与え、一大センセーションを巻き起こす。以後、シェイクスピアの戯曲を材にした「プロスペローの本」(91)、劇中劇の二重構造をとった宗教劇「ベイビー・オブ・マコン」(93)、清少納言の『枕草子』を独自に解釈した「ピーター・グリーナウェイの枕草子」(96)、フェリーニの「8 1/2」にオマージュを捧げた「8 1/2の女たち」(99) を発表し、90年代の芸術映画の世界に“グリーナウェイ・ブーム”を生み出す。【ナイマンの曲とともに独自の映画世界を確立】左右対称のシンメトリーな画面づくりへのこだわり、数字や言葉遊びを駆使した脚本、横溢するグロテスク趣味、食欲・性欲・暴力に充ちた物語などで、他に類をみない独自の映画世界を確立。また、デザイナーのジャン= ポール・ゴルチエやワダエミ、モダン・バレエの舞踏家カリーヌ・サポルタや書家の屋良有希など、幅広い分野で活躍する芸術家と組むことが多い。とりわけ作曲家のマイケル・ナイマンとは初期の実験映画時代からの仲で、“A Walk~”をはじめ、91年の「プロスペローの本」までほとんどの作品をナイマンが担当。グリーナウェイ人気とともにナイマンもまた注目を集め、映画音楽界の重鎮となる。しかしグリーナウェイはナイマンとのコンビ解消後はかつての勢いが失速し、2000年代に入ってからは日本未公開作が続き、「レンブラントの夜警」(07)で8年ぶりに新作が日本で劇場公開された。近年は空間芸術のインスタレーション作品や新作オペラ『フェルメールへの手紙』『コロンブス』を発表するなど、映画以外の分野でも旺盛に活動している。