【イタリア・ネオレアリスモの巨匠】イタリア、ローマの生まれ。父と祖父は著名な建築家。子供の頃から映画に関心を持ち、1936年、教育映画連盟に入り、40年までに6本の短編映画を製作。いずれも自主映画的なものではあるが、後年のロッセリーニの萌芽が色濃くあるといわれている。41年「白い船」で長編映画監督デビュー。この作品では弟のレンツォが作曲家として参加しており、以降のほとんどの作品で音楽を手がけることになる。42年には脚本にミケランジェロ・アントニオーニが参加した「ギリシャからの帰還」を撮る。次いでロシア戦線の従軍牧師を描いた“L.uomo dalla croce”を製作する。第二次大戦中、イタリアは連合軍とドイツ軍に二分され、ローマはドイツ軍に占領された。戦火から逃れながらロッセリーニは、いつかこの悲劇を映画に撮ろうと思い続けていた。やがて連合軍によるローマ解放。ロッセリーニは活動を開始する。撮影機材が不備な状況が続くが、彼はローマ市民の苦難の日々をドキュメンタリー・タッチで描いた。レジスタンスと、すさまじい弾圧。巻き込まれる市民たち。こうして傑作「無防備都市」(45)が誕生、ネオレアリスモ誕生を告げる作品となった。【“戦争3部作”完結】戦後第二作は「戦火のかなた」(46)、続いて「無防備都市」のアンナ・マニャーニと組んだ「アモーレ」(47)を発表、廃墟のベルリンにカメラを据えて撮った「ドイツ零年」(48) では、ドイツの少年の心の荒廃を描いた。「無防備都市」「戦火のかなた」とこの「ドイツ零年」がロッセリーニの“戦争3部作”と呼ばれる。そして、この3部作を総括する意図で「ヨーロッパ一九五一年」(52)を撮っている。50年「ストロンボリ/神の土地」を撮るが、製作中から主演のイングリッド・バーグマンとの“世紀の恋” が噂になり、共に既婚者だったが翌50年に結婚。夫婦間の愛の崩壊や人間の孤独をテーマにした「ヨーロッパ一九五一年」「イタリア旅行」(53)、「不安」(54)などのコンビ作を手がけたが、本国イタリアではもちろん、海外でも内容的にも興行的にもまったくの不人気だった(近年になってこの時期の作品が再評価されている)。二人は三児をもうけたが58年に離婚。その後ロッセリーニは、再び国際的にも評価されるようになる。「ロベレ将軍」(59)は第二次大戦末期が舞台。ナチの収容所に収監されているパルチザンの指導者を探るために詐欺師を放り込む。詐欺師に扮したのはヴィットリア・デ・シーカだった。そして翌60年「ローマで夜だった」。これも第二次大戦末期のローマ。闇商売をしている娘が連合軍の脱走兵三人を自宅に匿うが、ナチの追及が激しくなる。抵抗運動と小市民生活、国際的な信義をめぐってテーマが発展した。以降もイタリア統一運動、激動の60年代に素材を求めたが日本では公開されず、叙々に活躍の場をテレビに移していった。